「氷室京介は“解散”と決して言わなかった」BOØWYドラマー高橋まことが語る「一番悲しいクリスマスイブ」
1980年代に人気を博したロックバンドのBOØWYが、今年でデビュー40周年を迎えた。氷室京介、布袋寅泰、松井常松、高橋まことの4人で結成されたバンドは、わずか7年という活動期間でさまざまな金字塔を打ち立て、「伝説のバンド」とも言われることも多い。
渋谷公会堂(※当時)での解散発表から34回目のクリスマスイブを迎える今、記事前編に続き、ドラマーの高橋まことが、当時の記憶や、現在も輝きを放ち続けるメンバーへの想いを語った。
長野のホテルで「1位を取ったら解散する」と誓った
――シングルの『マリオネット』(1987年7月)がキャリア初のランキング1位を獲得、そのわずか半年後の1987年12月24日に解散を発表したBOØWY。人気絶頂のなかでの解散は多くの人を驚かせましたが、メンバー内ではそれ以前から解散の話し合いが持たれていたと言います。
解散について真剣に向き合ったのは、最初のアルバムツアーになった「BOØWY'S BE AMBITIOUS」(1985年9〜12月)の長野公演を終えた12月16日が最初でしたね。

布袋が「4人だけで話したい」と言って、泊まっていた長野ワシントンホテルのラウンジにメンバーを集めて、「この後、俺たちは多分売れる思う。そうしたら解散しよう」と言ったんですよ。
その時は、「やっとマイナスからのスタートラインに立ったばかりなのに…」とか、「まだ解散は先だな」と思っていたんだけど、あれよあれよと人気を博していきまして…。今振り返ってみると、布袋には「みんなで好きな道に行こう」というビジョンがあったんじゃないのかなと思うんだよね。

――その後、3枚目のアルバム『BOØWY』(1985年6月)で注目を集め、4枚目の『JUSTA HERO』(1986年3月)、5枚目の『BEAT EMOTION』(1986年11月)とヒット作をリリースし、絶大な支持を獲得しました。およそ2年間で3枚のアルバム(※ライブアルバムを含めると4枚)をリリースされていますが、どのような日々を過ごされていましたか?
俺は普段はサングラスを外していたから、声をかけられることは少なかったんだけど、氷室と布袋は出歩くと、毎回のように声をかけられて大変そうだったな。
ヒムロックは、特に気にするタイプで…。あまり人の集まるところ行きたがらなかったね。だから休みの日には俺と河口湖に出かけて、他人の目がない沖合いで一緒にバス釣りをしたりしてしていたよ。
あの頃は毎日何かしらの予定があって、とにかく忙しい日々だった。特に取材は大変だったな。当時はまだたくさんの紙媒体があったからね。
「この質問は3回目だよ」と内心は感じながら、インタビューに答えたり…(苦笑)。千葉の海や、静岡の浜岡砂丘とか、色々なところに写真撮影に出掛けたりして…。多忙な日々を過ごしていたけど、一方では「これが“売れている”ことの証なのかな」と思っていたところもあったかな。
――その後、シングルの『Marionette-マリオネット-』(1987年7月)が初のオリコン1位を獲得して名実とも日本一のロックバンドに輝くと、9月には6枚目のアルバム『PSYCHOPATH』をリリースし、大ヒットを記録しました。
1位を取れたのは、これまでに4人が一生懸命やってきた結果でしかなかったと思う。人気絶頂での解散は、「勿体無い」と思うこともあったし、俺自身は、「やれるなら続けていきたいな」という想いもあったんだけど、「辞める」と言ってしまったんだもん。みんなで覚悟を決めるしかなかった状況でしたね。
(1987年6月に制作された)『PSYCHOPATH』のレコーディングをしているときは、「これで終わりなんだ…」と思いながらやっていましたよ。