「いや、僕は今回初めてで」
こうして男性の友人と二人で出かけるとき、普段ならちょっとした引っかかりポイントを感じる。「女性のかた」「男性のかた」と呼びかけられ、カップルかと質問されたり、最初からそう扱われたり。でもこの空間ではこの瞬間から最後まで、わたし達はただの一度も性別で扱われることがなかった。
どんな人でも排除されない心地よさ
「ダーク」は一度に8人程度が一緒に体験できるのだが、顔見知りではない他の参加者もいる。知らない人と真っ暗な部屋に入るなんて、防犯面は大丈夫なのか? と最初はとても不安だった。もともと広場恐怖のきらいがあるし、誰かに不用意にぶつかって傷つけたり、触られて怖い思いをしたりしたらどうしよう…などなど。
すべてを飲み込む暗闇に、嫌な想像ばかり膨らませていたし、この体験を人に勧める度に同じようなことを言われてきた。「純度100%の暗闇」への期待に、久しぶり故の不安が顔をのぞかせる。
開始時刻が迫っても、人が増えてこない。貸切状態になりそうなことにホッとしつつも、他人がいるからこそ得られる感動や体験を、友人に味わってほしかった気持ちも拭えない。

「暗闇でアテンドしてくれるのは、普段から視覚に頼らずに生活している方、つまり視覚に障害のある人です」
この一言に痺れた。「視覚に”頼らず”」という、制限や不便を強調しない言い回し。見えなくても”不自由がない”なんて、想像もしたことがなかった「見えている人」に、新しい視点をもたらすワードチョイスだけど、わざとらしさの無いところがまたかっこいい。
世の中じゃダイバーシティだマイノリティだって話をされると、窮屈に思う人もいると思う。「多数であることは不便さを意識しないで済むってこと」というのは、確かに事実で、それが少数派の生活を知らずのうちに圧迫している場面も多い。
それでも「望んで多数派であるわけでもない」というか、勝手に責められているような気持ちになっちゃって、共感も応援もできない…なんてモヤついたり。
今回一緒に来た友人も、元はそういうタイプだ。だけど、ここではどんな属性の人も排除しない空気が、ごく自然に流れている。「それぞれにとってのスタンダードに気づいていく」感じが、マジョリティにとっても居心地が悪くない理由なのかもしれない。