「集合住宅の窓から叫ぶの、かわいいやら迷惑やらだな!」と、ひとしきり笑ったところで、タエさんの番になる。
「クリスマスってずっと提供する側だなぁ。子どもの頃聖歌隊にいたのもだし、今こうしてアテンドしているのもそう」
クリスマスを”提供する側”とは、新しい響きだった。わたしも百貨店アルバイトの時代は山のように積まれたケーキを売りまくっていたけど、「提供する」と思えるほど能動的じゃなかったように思う。
クリスマスにのんびりできないことに、どこか「負け組」のような感覚を持っていたというか、心を冷たい風に撫でられる感じ。

それに、浮かれた人に囲まれて働く同士たちの中には、一緒に過ごす相手がいないことに寂しさを覚えているという人も居ると思う。日本のクリスマスって、対人関係を自己採点させるような奇妙な面があるから。でもタエさんは、クリスマスに働くことが自分の大切な使命みたいに話してくれた。
トナカイも連れていないし、赤も白もすべて飲み込まれてしまう暗闇の中だけど、わたしはサンタの姿を確かにそこに見ていた。
クリスマスって本当は、イルミネーションを誰とどこで見るか…っていうイベントじゃなかった。「誰かが運んでくる嬉しいことを待つ」という楽しみが、電飾と一緒に輝いていたはずなのに。それが歳を重ねる内に、”嬉しいこと”の中身が周りから決められてしまったり、もっと言うなら、自分の嬉しいことがわからなくなってきたりする。
あの頃感じていたワクワクは、他人との関係にあるんじゃなくて自分の中にあったと思う。サンタに宛ててどんな願いを書くのか、真剣に考えることができた。実際どこまでなら叶いそうかな~っていう、あざとい計算はあったかもしれないけれど。
見えてしまって、寂しい
その後もいろんな話をしながら歩き進め、暗闇の世界から光の中へと戻ってきた。一番最後の部屋で、扉から漏れる光の筋を目にしたとき、なんとも言えない寂しさが心に湧き出た。
鮮やかで優しい暗闇の世界と違って、光の中では何事も曖昧にしておけない厳しさを感じる。モノも人も輪郭がハッキリし過ぎている。入る前は暗闇があんなに不安だったのに、今じゃ明るすぎる方が不安だなんて、本当に不思議な体験だ。
最後に明るい中で感想を話し、アンケートを書いてこの日の体験は終了した。駅に向かう道で、友人に感想を聞く。