こどもと家庭
「親ガチャ」(生まれてくる環境は選べないという意味)という言葉がよく聞かれた一年でもありました。菅政権はだしぬけに「こども庁」を創設すると言いだし、岸田政権は急にそれを「こども家庭庁」に変えると宣言しました。子どもの成長は家庭(つまり母親)が支えるという考えに戻ったようです。安心できる親も家庭も失った子どもたちはどうしたらいいのでしょう。
広義の「家族小説」をご紹介します。
散文詩を連ねる形で書かれた、カーネギー賞作家による小説です。
これは、この形でしか書けなかったのではないでしょうか。母がいなくなってから、父の心身への暴力に耐えかねて家を出た少女は、「こことはちがうどこかへ行く」ためバスに乗りこみます。父の元恋人で心が通じあっていた女性に会おうと連絡をとりつつ、いつしかある家に迷いこむ。そこには、認知症の老女「マーラ」が独居していた。マーラは少女を、かつて別れ別れになった親友「タフィー」と間違えており、少女は半分タフィーを演じながら、ダンスや料理を通じて、老女と二人で闇を抜けだそうとする。
少女の過去と現在は時間を行きつ戻りつしながら、断片的に明かされていきます。つぶやきのような切れ切れの言葉も、迸る言葉も、途絶してしまう言葉もあり、安易な癒しには向かいません。それでもシビアな展開の中に「今のあなたでいいんだ」という肯定が感じられました。「ポエムって、意味のわからない言葉のことでしょ?」と思う人こそ、読んでください。
親の思惑が渦巻く熾烈な受験競争小説です。今年は「メリトクラシー」(マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(鬼澤忍/訳 早川書房)にも出てくる言葉。実力主義、学歴主義などとも訳される)の是非もしばしば議論されました。
『ミカンの味』は、女性の芽を摘むメリトクラシーと過酷な学歴社会に投げこまれる少女四人の抵抗を描いています。父の事業失敗で一種のヤングケアラーになる子、陰湿ないじめにあって失神する子。家庭格差、エリート高校に合格するための住所偽造、内申書の学校ぐるみの粉飾……。
彼女たちは青いままもがれて出荷されるミカンのようです。もろくて強いシスターフッドの絆が痛々しい。最後に冒頭場面に戻る倒叙法が効いています。
ありふれた、ごく平和そうに見えるある町の一画。十軒の世帯には、それぞれの、なかなかに深刻な問題が隠れています。あるとき横領犯の女が脱獄し、この界隈に逃げてきたことで、それらが明らかになっていきます。
妙に張り切って交替の見張り体制を組む男性がいる。逃亡犯に連れていってほしいと思う小学生もいる。父は不在、母は家事育児をろくにしないので、幼い妹を抱え一家のヤングケアラーになっているから。凶悪犯罪の芽があったり、なにやら建築中の父母がいたり。
ご近所さんの学歴、子どもの数、家の大きさ、職業をめぐって、妬みがある、意地がある、微妙なマウンティングがある。鬱憤がたまる。逃亡犯が入りこんできたことで巻き起こる波乱のいろいろ。犯人はなぜ横領を重ねたのか? つまらない住宅地に起きたつまらない事件はゆるやかな連携を呼びこみ、驚きの大団円を迎えます。小説を読む醍醐味を実感させてくれる傑作です。
今年、本作で群像新人文学賞を受賞しデビューしたばかりの新鋭作家です。その歩みは確かで、すでに発表された第二作「オン・ザ・プラネット」でさらに飛躍した観があり、次期芥川賞の候補にも挙がっています。『鳥がぼくらは祈り、』というタイトルは、なんだか「てにをは」がおかしいし、最後に読点が打ってあるのはなに? と思うかもしれませんが、誤植ではありません。これが本作の文体の特徴を表しています。
家庭にそれぞれの問題を抱えた男子高校生四人。裏社会と繋がる荒っぽい男たちが闊歩する北埼玉で、彼ら四人は縮こまるように生きている。父親のDVや自殺や不在。四人は中学生の頃、その秘密をごくごく迂遠に打ち明けあい、互いの人生を引き受けた。「父親なんて」と口を揃え、ある種の”父殺し”を行おうとするが……。
精神の「紐帯」で結ばれた四人は不定形のエネルギーのようになって、呼吸し喋り視線を動かす。一人称文体でありながら多元視点を展開させ、言語と意識の不分明さと鬱屈感を表現したことに感銘を受けました。
※桐野夏生『砂に埋もれる犬』(朝日新聞出版)も親のネグレクトと少年の凄絶なサバイバルを描いた大作として注目です。