深まる父子の確執

彼の周到さは、この襲撃を正当化するために、三浦・和田・畠山をはじめとする多くの御家人を動員したところにも明らかであった。建仁3年(1203)9月2日のことである。
将軍頼家は一時、危篤状態におちいったものの、その後、病状はもちなおし、落飾出家を強要されるに及ぶ。
伊豆の修善寺(しゅぜんじ 現・静岡県伊豆市)へ幽閉された頼家は、翌年7月18日、この地で殺害された。わずかに、23歳の生涯であった。
殺人の首謀者は時政であり、彼の独断、ないしは義時の止めるのをふりきっての蛮行であったように推測される。
3代将軍に実朝が補され、10月8日には12歳にして元服の儀がとりおこなわれた。政所別当は大江広元と時政の二人。広元は軍事力を有しておらず、天下はまさに時政一人のものといってよかった。
比企氏の族滅で所領をさらに増やした時政は、鎌倉武士の鑑(かがみ)ともいわれた畠山重忠(はたけやま・しげただ)を次の標的に選ぶ。自らに増加した所領が、武蔵国(現・東京都、埼玉県と神奈川県東部)において、重忠と接したのが一つの理由であったとされている。
時政は比企氏謀殺のおり、息子の北条時房を内応者として放ったと同様、まず畠山方へ重忠の同族・稲毛三郎重成(いなげ・しげなり)を投じた。この人物の亡き妻が、政子の妹である。標的の重忠も、時政の娘婿の一人であったが、この舅は実直な重忠より、後妻の牧の方(まきのかた)の長女が妻となった平賀朝雅(ひらが・ともまさ)を実の子のようにかわいがっていた。
この人物は八幡太郎義家の弟・新羅(しんら)三郎義光の流れを汲む一族で、頼朝の猶子ともなっている。建仁3年に京都守護職となって上京し、時政と書簡を往来させていたと思ったら、突然、「重忠に叛乱の企てあり」と牧の方へ告げてきた。
それを受けて、ころはよし、とみた時政は、義時と時房の息子二人を自邸に招き、重忠の追討を密かに命じる。時政にすれば、二人の息子は二つ返事で承諾する、と思い込んでいたふしがあった。ところがこのとき、義時ははじめて父に抗弁する。
「重忠は忠直を専らにする間、右大将軍(頼朝)も慇懃の御詞を遺さる者なり。まして、我ら兄弟の実の妹と婚して、父上に対しては御父子の礼を重んぜり。今、楚忽の誅戮を加えられば、定めし後悔に及ぶべし」
義時のいう後悔は、鎌倉中の御家人の反感・憎悪を買うことを意味していた。
重忠と義時は義兄弟の間柄であり、年齢も近く、両者は互いに信頼し合っている(重忠は義時より1歳年下)。
が、独裁者としての条件をみたしつつあった時政は、息子の諫言を入れない。