ついに決別の時
鎌倉に兵乱が起きたと偽って重忠を、本拠地から誘い出し、武蔵二俣川(ふたまたがわ)において、大軍を用い邀撃・殲滅したのである。元久2年(1205)6月22日のことであった。重忠の享年は、42と伝えられている。
古来より疑獄と呼ばれた政治上の事件は、その大半が人間の想像力によって産み出されたものであり、その場合に必要なのは、大義名分=想像力を増幅するための言い訳にすぎない。その言い訳に憎悪や利益がつらなると、疑いは白光を放って光り輝く。
重忠は何ら、北条氏を批判していない。批判していないどころかつねに支持し、武力を提供してきた。
この度の一件も、根をあらってしまえば時政の我欲が、むりやり武力を行使させたにすぎない。そのことを一番深刻に受け止めていたのは、息子の義時であったろう。
「重忠の一族親類は大概、他所にあり。従うものわずか百余騎ばかり。しからば、謀叛と企だつること、すでに虚誕なり。讒訴に依りて誅戮(ちゅうりく)に逢うか、はなはだ不愍(ふびん)なり」(『吾妻鏡』巻18)
北条父子の、決別の時が来た。――と同時に、ここが義時の正念場であった。
もし、世評の時政へむけられる憤りやうらみつらみを無視して、この偉大な父に盲従しつづければ、おそらく以後の歴史において義時の占めるところはなくなっていったに違いない。
義時はまず姉の政子を語らい、時政の行動を見張った。ほどなく、時政と牧の方による陰謀が露顕した。
畠山重忠が討たれた1ヵ月後のことである。牧の方が3代将軍実朝を殺し、聟(むこ)の平賀朝雅を将軍に擁立しようと計画。それに時政が、荷担したというのである。
朝雅は、ときの後鳥羽上皇(第82代天皇)にも接近していた。先の畠山重忠に対する謀殺にも、積極的に参加。否、クーデターの中心はむしろ、この人物であったかもしれない。
比企能員、畠山重忠を誅殺に成功した時政らには、心に隙も生じていたのだろう。
京都と鎌倉を結んでの陰謀のわりには、諸事、無用心で準備に時間がかかりすぎた。事前に察知した政子によって、実朝が義時の邸ヘ移されたことで急転、破砕した。
これまで時政の権勢におもねり、付き従っていた御家人たちは、踵をかえして義時のもとへ集まり、時政は事が破れたことを悟ると、落飾出家して牧の方ともども伊豆北条(現・静岡県伊豆の国市)の地に隠居した。一代の梟雄にして鎌倉幕府初代執権は、こうして政治生命をおえた。ときに68歳。