視聴率惨敗の紅白歌合戦がそれでも守るべき、ただ一つの「ルール」

どれだけコンセプトが揺らごうとも…
中川 右介 プロフィール

 紅白の源流

2021年は第72回だった。第1回は1951年なのだが、53年の第3回までは1月3日に行なわれていた。第4回から12月31日になり、したがって、1953年は第3回が1月3日、第4回が12月31日と、2回、行なわれた。

当初はラジオだけだったが、第4回からテレビでも放映されるようになった。

だが、その前に「紅白音楽試合」という番組が敗戦の年、1945年12月31日に放送されている。これが「紅白歌合戦」の前身である。

1945年の「紅白」は、「歌」ではなく「音楽」で、「合戦」ではなく「試合」だった。さらに、次に開催されるのが1951年と5年も空白があるので、「第一回」とはなっていない。

 

だが、基本コンセプトは1945年に生まれていたのだ。敗戦から4ヵ月半。まだ東京など空襲を受けた都市が、瓦礫の山だった時期だ。

この番組について『文化復興 1945年』(朝日新書)に書いたので、その部分を引用しよう。

今日まで続く『紅白』の基本コンセプトである「男女同数の歌手が出演」は、1945年の『音楽試合』で確立されたものだ。

GHQが求める日本の民主化のなかでも最も単純にして、最も困難でいまだ実現したとは言えない「男女平等」思想が、この番組の根底にあった。

NHK音楽部の三枝健剛(1910~97、本名・三枝嘉雄)と近藤積(1916~89)は「新機軸の音楽番組」を企画するよう指示された。

「新機軸」なのだからこれまでにないものだ。それは民主主義の時代にふさわしい番組でなければならない。三枝は誰もが参加できるというコンセプトの『のど自慢素人演藝会』を企画し、近藤は男女同数の歌手がスポーツのように競う『紅白歌合戦』を思いついた。

三枝の「のど自慢」は軍隊時代に経験した余興大会がヒントで、近藤の「紅白」は剣道の紅白戦からの思いつきだった。

「のど自慢」は1946年1月19日に『のど自慢素人音楽会』として放送され、現在の『NHKのど自慢』の前身となる。1945年暮れの段階で、二つの長寿番組が同時に誕生したことになる。

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