(略)近藤が後に明かすところでは、『紅白歌試合』のコンセプトは当時のアメリカ文化が持つ「3S」――スポーツ、セックス、スリルにあった。スポーツの対抗戦形式で男女の性別を強調し、スリルとサスペンスを重視した演出――これを基本にして企画書を作り、CIEへ提出した。ところが翻訳者が「合戦」を「Battle」と訳したため、制作許可が下りなかった。「軍国主義思想を煽る反動番組」と誤解されたのだ。
あわてて「Battle」は誤訳でスポーツの団体試合のようなもので、「Match」であると説明して、誤解のないよう日本語での番組名を「合戦」ではなく「試合」にすることで、制作許可が下りた。
「歌試合」ではなく「音楽試合」にしたことで、歌のない音楽も演奏されることになる。
革新的だった「男女同数」
この1945年の「紅白」は録音が残ってなく、台本も現存しないようで、出演者や曲の正確な記録がないのだが、紅白それぞれ11組から13組が出た。
司会は白組が古川緑波、紅組が水の江瀧子という、人気スターだった。
出演者は流行歌手だけでなく、オペラ歌手もいれば、歌わない音楽家、ヴァイオリン、琴、三味線の奏者もいた。「歌合戦」ではなかったのだ。
それでも、男女同数が出て、どういう審査・採点方法かは分からないが、対戦したようだ。
どこかのホールに観客を入れて開催したのではなく、スタジオに歌手を集めて無観客で放送した。
戦後75年が過ぎても、国会議員の数では女性が1割にも満たない状況であることを考えると、まだ女性に参政権がない時期に、男女同数が選ばれて対戦したというのは、画期的だ。
そして、5年後の1951年1月の「紅白歌合戦」でも、男女同数は維持されたのだ。
「紅白歌合戦」は男女同数というのが当たり前になっているが、この時代の大半の映画では、男性が主役で、女性はその恋人や妻の役という位置づけなのでので、芸能界全体を見ても、「紅白」の男女同数・男女対抗は異質だったはずだ。
男女同数というルールがあったから、戦後、女性歌手は活躍できたのだ。
もし「その年に活躍した歌手を、男女を問わず40人選ぶ」という方法だったら、男女同数になることは、よほどの偶然がない限りはありえなかっただろう。
時代によっては女性のほうが多くなったかもしれないが、男性優位になっていたかもしれない。
女性歌手がみな、「紅白」を目指せたのは、男女同数ルールがあったからだ。