2022.01.09

「やたらと“エビデンス”を求める人」と「陰謀論にハマる人」、その意外な共通点

じつは両者は似ているのかもしれない…
松村 一志 プロフィール

日常用語としての「エビデンス」

ここで、現代社会における「エビデンス」の流行に話を戻そう。

現在、日常用語として浸透している「エビデンス」は、いま見てきた「エビデンス・ベースト・メディシン」の考え方とは大きく異なっている。最大の違いは「エビデンスがある/ない」という二択で語られることだ。

本来の「エビデンス」はレベルごとに序列化されている。だから、根拠の強さは程度の問題であり、「エビデンスが全くない」という状態はほとんど想定されていない。どんな状況でも「弱いエビデンスならある」と言えるからだ。

例えば、一人の医師の見解や患者自身の説明は、根拠としては弱いが「エビデンス」であることに変わりはない。ところが、「エビデンス」を不正確に使う人は、そうした程度の問題を無視し、「ある/ない」の二択で判断してしまう(Guyatt and Rennie eds. 2002: 13-14=2003:11; 岩田 [2014] 2015)。いま広がっている「エビデンス」という日常用語は、まさにそうした用法になっている。

 

このように「エビデンス」を「ある/ない」で語りたくなってしまうのは、私たちが「正解」を求めているからだろう。原発事故や新型コロナウイルス感染症をめぐって見られたように、専門家の中でも立場が分かれる問題はあるし、専門家の発言が当たるとは限らない。

もちろん、本当はコンセンサスがあるのに、一般の人にはそれが分からないといった場合もあるが、新たなリスクに直面する場合にはどうしてもデータが不十分になり、仮定の話が多くなる。だから、専門家(やその発言を伝える人々)が言っていることが信頼できるかどうかを判断しなければならない。

そこで問われるのが「エビデンス」の有無である。本来、「エビデンス」は、ある介入(例えば治療)の効果を評価するものにすぎない。ところが、専門家に対して「エビデンス」の有無を問うとき、私たちはその専門家が信頼できるかどうかをも同時に評価しようとしてしまう。「エビデンス」があれば信頼でき、それがなければ信頼できないというように、専門家の信頼性をめぐる判断へと転用できるのだ。

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