10年刻みで、男子の生き方の指針を示している。
見ればわかるように、その年でやらなければいけないこと、ではない。すべての男子は30歳で妻を迎えよ、という規律でもなければ、指令でもない。目処である。
20歳のことを「弱」と呼ぶ、その年では「冠」をかぶっていないといけない、大人社会に入りなさい。そういうガイダンスである。どちらかというと、「20までに」というニュアンスだろう。
もはや子供ではないということを内外にわかりやすく示す儀式が「冠す」である。
むかしの人は40から50くらいで一期を迎えるつもりで生きていたから、成人の儀式はふつう十代半ばである。人によってはもっと早い。そうしないと間に合わない(自分の子供の成人前に死んでしまう)。
30には結婚していろ、40には仕官するつもりでいろ、50では指導者になることを考えて生きよ。そういう話である。
20には大人になっていろ。
そういうことである。
なぜ20が「弱」で40が「強」なのか
それぞれの目処とされた年齢は、二文字単語と一緒に記憶された。
10歳:幼学。
20歳:弱冠。
30歳:壮室。
40歳:強仕。
50歳:艾服。
ちょっと話がずれるが、若いときにこれを読んだときは、20を弱、40を強、とする感覚がわからなかった。若いうちは体力が頼りで、年を取るとそれが衰えていくわけだから、20のほうが40より体力が強いだろうと、そういうふうにおもっていた。
どっちの年齢も越えると、言葉の配置がよくわかってくる。
やはり20は弱で、40は強なのだ。
この言葉は単に「力が強い・弱い」を指しているのではない(そうとらえてしまうのが若さなんだとおもう)。
たとえば皮膚の弾力をおもいうかべるとわかる。
男でも20歳の肌は弱で、40の肌が強である。
「弱」は強くない=弱いという一面性だけを表していない。
「たおやか」とか「しなやか」という意味合いも含んでいる。
「強い」は「こわい」と読むこともできて、それはゴワゴワしているとか、ガチガチに固いという意味にもなる。