平安時代は「平安な時代」だったのか? 下級官人と庶民の人生とは

「王朝文学」の理想から離れて
平安時代の「王朝文学」に描かれた、平安貴族の優雅な生活――しかし実際は、王朝貴族たちは政務や儀式の遂行に追われ、そして下級官人たちは、官職や昇進の上限を定められた過酷な人生を歩んでいた……。平安時代の庶民や下級官人は、日々どのような暮らしを送っていたのか?
倉本一宏氏が「平和で優雅な時代」の苛酷な日常を描き出した最新刊『平安京の下級官人』から、「はじめに」の全文を特別に公開します!

「平安時代は優雅だった」という誤解

あれはそう、もう20年以上も前、Yahoo!のアンケートで、「生まれ変わるならどの時代がいいか」というのがあった。その結果は、1位が平安時代で、コメントの一つに「お姫様として生活したい」というものがあり、2位が幕末で、同じく「坂本龍馬と友だちになりたい」というものがあった。

私はこの結果を見て、啞然とした。実際には、たとえ平安時代に生まれ変わったとしても、ほとんどの人は地方の農民として生を享けることになるのであり、しかも、たとえ都で貴族の姫君として生まれたとしても、不健康な生活のうえに、下手をすると苛酷な後宮(こうきゅう)の勢力争いに巻き込まれてわびしい人生を送るのがオチだからである。ついでに言うと、龍馬みたいな者とつきあっていたら、いつ命を落とすかわからないであろう。

正解は、生まれ変わるとしても現在、もしくは近未来に生まれ変わるのが一番いいのであるが、このアンケートで、多くの人に平安時代が優雅な素晴らしい時代として認識されているのは、ひとえに「王朝文学」と呼ばれる文学作品における王朝貴族の生活が、毎日ぶらぶらと遊んでばかりいる、理想の社会であるかのように描かれていることを、あたかも平安貴族の実像であるかのように誤解してしまっているからであろう。

少しでも男性貴族の記した古記録を読んだことのある人ならば、王朝貴族が政務や儀式の遂行にいかに大量の時間とエネルギーを投入していたかはすぐにわかるし、それでなくても「王朝文学」を少し注意深く読み込めば、藤原道綱母(みちつなのはは)や中宮(ちゅうぐう)藤原定子(ていし)や紫の上(むらさきのうえ)が苦悩に満ちた人生を送っている(ように描かれている)ことは明白である。

平安時代の官人生活の実態

たしかに平安時代は、日本史上のみならず世界史上でもまれな「平安な時代」であった。外国勢力からの侵略をほとんど想定せず、国内にも本来の意味での異民族は存在しなかったために、都の王権や貴族や市民がその侵攻に脅える必要もなかった。

弘仁(こうにん)元年(810)に起こった「薬子(くすこ)の変(平城(へいぜい)太上天皇の変)」における藤原仲成(なかなり)の射殺から、保元(ほうげん)元年(1156)の保元の乱の戦後処理まで、国家における死刑がなかったことも、よく言われることである(実際には、仲成の射殺は国家による公的な死刑であるとは考えられないし、平家滅亡の後でも、九条兼実(くじょうかねざね)は、「我が朝では死刑はない」と言っている)。

また、理想主義的な律令国家の維持をあきらめ、国情に合わせた実際的な徴税体系と政権構造を再構築したいわゆる「王朝国家体制」と「摂関政治」の完成によって、平安時代中期以降は、中央の王権から地方の農民にいたるまで、律令を生真面目に実行しようとしていた奈良時代よりも、はるかに豊かな時代となっていた。

7世紀後半に唐からの侵攻に備えていた時代や、8世紀の律令公民のように苛酷な租税や兵役に苦しんでいた時代と比較すると、「平安」時代とはよく言ったものである。

とはいえ、平安時代がまったく「平安で豊かな時代」であったかというと、そうとばかりは言っていられない。

世界史的に巨視的に見れば、また日本列島の歴史のなかで相対的に見れば、平安時代は豊かで平和な時代ではあったものの、平安京に生きた個々の人びとのなかには、苛酷な日常や苛烈な運命が待ち受けていた人もいたことは、これもまた歴史の必然である。

特に後に述べるように、当時の貴族たちから「下衆(げす)(下司・下種・下主とも)」と呼ばれた下級官人たちは、その門地 によって任命される官職や昇進の上限が決まっており、一応は個人の能力によって就職したり昇進したりできる(ことになっている)現代から見ると、まことに絶望的な人生を歩まなければならなかった。

この本では、彼らの官人生活の実態や、できれば彼らの心情にまで踏み込んで、はたして本当に彼らが絶望的な生活を送っていたのか、それとも案外したたかに平安京の生活を楽しんでいたのかも、探っていくこととする。

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