アルツハイマーでも笑いの絶えない夫婦
私が若井晋と、その妻・克子に初めて会ったのは、2012年9月初旬のことである。栃木県にある二人暮らしの自宅は、JR東北本線の最寄り駅からタクシーでワンメーターほど。畑と住宅が混在する長閑(のどか)な風景の中にある。チャイムを鳴らすと、克子が笑顔で招き入れてくれた。
この家のリビングで私は、締め切りまで5回にわたって夫妻へのインタビューを繰り返すことになるのだが、結論から言えば、取材は思っていたようには進まなかった。
認知症とは、脳の認識力が極端に低下する病である。アルツハイマーはその一種で、記憶障害(忘却)を主として、言語障害(言葉が出ない)、感情失禁(感情を抑えられない)、異常行動(徘徊など)といった症状が出る。
言葉の面に関して、若井の症状は進んでいるように見えた。私が会った時点では問いかけに答えるのは専(もっぱ)ら克子で、若井はその言葉に「うんうん」「そうそう」などと相づちを打つことが大半だった。

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本人のまとまった言葉を聞くことはなかなかできない。警戒されてもいるようだった。自分の取材力不足を棚に上げて言わせてもらえば、主に「他人の話を聞く」ことを生業にしている者にとって、頭の痛いことだった。
だが最初は私に警戒心を抱いていた若井も、うち解けてくるに従って、一緒に談笑し抱擁しあうような間柄になってきた。もっとも他人とハグするのは、海外出張の多かった若井の昔からの習慣らしい。
「一度、私の前でもう90歳になるおばあちゃんに抱きついたことがあって。抱きつかれた人が『奥さんに悪いよ!』なんて言い出すから、私も可笑(おか)しくって」
こう思い出し笑いする妻の傍らで、晋も声をあげて笑った。医師が見れば、人に抱きつくのはアルツハイマーの“症状”だと言うだろう。それをいま、夫妻はそろって笑い飛ばしている。
私の頭に一つの疑問が浮かんだ。冒頭の戸惑いをにじませる日記と、目の前の2人の穏やかさや明るさの間にはあまりにも差がある。彼らはどのようにして自分たちの境遇を受け入れ、今に至っているのか。それを知るためには、まず2人の歩んできた人生を辿る必要があった。