マルクスに傾倒し、キリスト教と出会った青春時代
若井晋は1947年、群馬県に生まれた。父親は旅館を経営していた。晋の母が女将として仕切り、2人の姉は美容師の免許を取って旅館で美容室を開業する。一家総出で事業に臨んでいたわけだが、生活は楽ではなかった。若井が子どもの頃には、冬の寒さを凌(しの)ぐための炭を買う金にも事欠く有様だったという。
そんな一家にとって、末っ子で唯一の男の子である晋は期待の星だった。若井は、幼い頃に腎炎を患ったことがきっかけで医師を志すようになっていた。中学時代はバスケットボール部の主将を務めるなど人望も厚く、進学した前橋高校での成績も優秀だった。
そして両親の期待に応え、1965年、東京大学に入学。若井は猛烈な勢いで勉学に励んだ。夏目漱石、ドストエフスキーなどの文学全集を読破しただけでなく、マックス・ウェーバーなど社会科学系の本も読みあさり、英語、ドイツ語のほか、フランス語やラテン語の書物まで渉猟(しょうりょう)した。
時代は学生運動が盛んな頃であった。若井も一時はマルクスに傾倒し、友人と議論を闘わせたりした。結局、運動に深入りすることはなかったが、社会のあり方や自分の生き方について省察を深めた時期だった。

学生時代、その後の若井の人生にとって重要な出会いが二つあった。
一つはキリスト教である。東京で独り暮らしをせねばならなくなった若井は、生活費を浮かすため「同志会」というキリスト教の寮に入寮した。ここはクリスチャンが私財を投じて作った寮で、祈祷会や教会での礼拝に出席するなど、いくつかの義務はあったが、当時は家賃不要という大きなメリットがあった。
若井はクリスチャンではなかったが、入寮してその教えに接するうち、次第に信仰に目覚めていった。とりわけ内村鑑三が主張する無教会主義の考え方――儀式や教会などの形式にとらわれず専ら信仰心のみを重視する――に強く惹きつけられた。
妻・克子との数奇な出会い
もう一つの出会いは、後の妻・克子とのそれだ。