「緑の成長」と「脱成長」
ただし正確に言えば、こうした方向には二つの姿がある。
その第一は「グリーン・グロース(Green Growth 緑の成長)」、つまり資源消費や環境への負荷を最小限なものにしながら経済成長ないしGDPの増加は追求するという姿である。 この考えは、資源消費や環境負荷と「経済成長」とを切り離すという意味で、“デカップリング”と呼ばれることもある。
第二は「ディ・グロース(Degrowth 脱成長)」、つまりGDPの増加ということをもはや絶対的な目標にせず、それとは異なる「豊かさ」の指標や社会の姿を志向するという姿だ。ちなみに最近経済界でもよく議論されるようになっている「ウェル・ビーイング」や「幸福度指標」をめぐる話題はこれに一部関連する側面をもっている。
先ほどの資本主義の定義(資本主義=市場経済プラス限りない拡大・成長)との関連で見れば、形式的に言うならば前者(緑の成長)は「資本主義」の範囲にとどまっており、後者(脱成長)は「資本主義」から離脱したものと言うこともできる。
実はこの話題は、私が20年以上前に出した著書『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』(2001年、岩波新書)でも言及しており、そこでは前者を“弱い意味の定常型社会”、後者を“強い意味の定常型社会”として位置づけていた。当時の日本ではこうした議論は広く浸透するに至らなかったが、カーボン・ニュートラルや「SX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)」、ESG投資等が一般的な話題となっている現在、そろそろこうしたテーマを視野に収めていく時期になっていると思われる。
ただし、現実的には両者(「緑の成長」と「脱成長」)は連続的な面をもっており、今の段階でこの両者のいずれをとるかにこだわるのはあまり生産的でないと私は考えている。たとえて言えば、それは“野党同士が互いの方針の違いにこだわり対立する結果、永遠に政権をとれない”状況と似ている。
大きく見れば、持続可能性あるいは地球環境の有限性を重視するという基本スタンスにおいて「緑の成長」と「脱成長」は共通しているのであって、究極の姿が「脱成長」であり、「緑の成長」は過渡期的な、移行期の戦略として意味をもつものと言える。
要するにそれは、「限りない拡大・成長」から「持続可能性とウェル・ビーイング」を重視する社会への、これからの数十年をかけた大きな移行のプロセスなのだ。