頼朝軍の最初のターゲット! 山木兼隆と堤信遠って何者??

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第4話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で日本中世史が専門の歴史学者の呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。第4回目となる今回は、山木邸討ち入りに向けて戦支度を進める様子を描いた昨日放送の第4話「矢のゆくえ」について、さまざまな史料や最新の学説を参照しつつ、専門家の視点から見たみどころを解説してもらいました。

第1回:いよいよ放送開始!『鎌倉殿の13人』第1話を歴史学者はどう観たか
第2回:仲が悪いけど実は〇〇〇!?伊東祐親と工藤祐経の複雑すぎる関係
第3回:源平合戦の幕開け! なぜ以仁王と源頼政は挙兵するに至ったのか?

『鎌倉殿の13人』の第4話では、山木邸討ち入りの準備が描写された。本作の主人公である北条義時は相変わらず周囲に振り回されているものの、要所要所での説得は頼もしい。八重の貢献はフィクションだが、源頼朝たちが何らかの方法で山木兼隆の在宅を調べたことは事実だろう。『吾妻鏡』によれば、安達盛長が兼隆の雑色(ぞうしき。使用人)を捕らえているので、彼から聞き出したのかもしれない(ドラマでは堤信遠(のぶとお)の雑色を捕らえたと改変している)。歴史学の観点から、第4話のポイントを解説する。

頼朝軍の兵力と工藤茂光

さて挙兵時の頼朝の兵力はどのくらいだったのだろうか。『鎌倉殿の13人』は24人としているが、これはいささか少ないように思う。軍記物『源平盛衰記』によれば、北条時政・宗時・義時、佐々木四兄弟、土肥実平・遠平父子、岡崎義実(よしざね)・義忠父子ら85騎が攻撃軍であった。夜討ちの大将である時政は85騎を山木邸攻撃と堤邸攻撃の二手に分けている。頼朝は後方の本陣で待機していたが、味方の苦戦を知り、護衛に残していた加藤景廉(かげかど)ら5騎を援軍として投入している。よって『源平盛衰記』に従えば、頼朝軍は総勢90騎ということになる(なお延慶本『平家物語』は30~40人としている)。

伊豆国周辺地図【坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版)などを基に編集部作成】

『吾妻鏡』治承四年八月六日条は、工藤茂光(もちみつ)も頼朝の麾下(きか)に参じていたとしており、『鎌倉殿の13人』もこれを踏襲しているが、私は8月17日の山木邸討ち入りには参加していなかったと考えている。工藤氏は伊豆の有力武士であり、茂光が参加していて90騎ということは考えにくいし、茂光を差し置いて時政が大将を務めるのも不自然だ。『吾妻鏡』の同条は、工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・佐々木盛綱・加藤景廉らを頼朝が1人ずつ招いて「お前だけが頼りだ」と全員に語ったという逸話である。同条は「頼朝は本当に大事なことは北条時政にだけ話した」と結ぶ北条氏顕彰記事なので、全面的に信じることはできない。

とはいえ、頼朝が挙兵前に工藤茂光と連絡をとり、味方になる約束をとりつけていたことは認めて良いだろう。山木兼隆を討てば、平家家人の伊東祐親との激突が予想される。祐親に対抗するには、工藤茂光の協力が不可欠であり、頼朝の挙兵は茂光の同意を前提にしていたと考えられる。

工藤茂光は伊豆を治めていた源頼政の家人であり、茂光の一族は以仁王・頼政の挙兵に参加している。頼政・仲綱父子が敗死したことで、茂光の立場は悪くなり、ライバルの伊東祐親の勢威が増大した。

伊東(工藤)氏略系図【編集部作成】

さて、源頼政の孫である有綱は伊豆で健在だった。そこで平清盛は大庭景親(かげちか)に有綱討伐を命じたが、景親が相模国に戻る前に有綱は奥州に逃亡していた。永井晋氏は、茂光は出奔した有綱の代わりに源頼朝を担いだのではないか、と推測している(『鎌倉源氏三代記』吉川弘文館、2010年)。頼朝の挙兵の背景には、工藤茂光と伊東祐親の勢力争いが存在したのである。

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