決死の脱出劇!頼朝・時政・義時が辿った逃走経路の謎

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第6話
呉座 勇一 プロフィール

北条時政・義時はどこへ逃げたか

ところで、石橋山合戦に敗れた北条時政・義時はどこに逃げたのか。この点に関して『吾妻鏡』の記述は錯綜しており、不自然な点が多い。『吾妻鏡』治承四年八月二十五日条によると、北条時政は武田信義らの甲斐源氏に援軍を要請するため、甲斐国に向かった。しかし頼朝の安否が定かでない状況では援軍要請に応じないだろうと思い直し、土肥方面に引き返して頼朝の後を追った。そして同月二十七日条によると、北条時政・義時らは土肥郷の岩浦で船に乗り、安房国を目指した。両条を整合的に理解しようとすると、時政は頼朝と合流した上で頼朝の使者として甲斐に向かうつもりだったが、合流できずに義時と共に安房に渡海した、ということになる。

坂東周辺地図〈編集部作成〉

とはいえ、最初は西の甲斐に向かおうとして、考えを変えて東の安房に進むという時政の行動はいささか不可解である。敗走の最中で頭が混乱していたとも考えられるが、『吾妻鏡』の曲筆を想定する見解もある。

坂井孝一氏は、『吾妻鏡』八月二十五日条は、時政が勝手に船で逃げたことを糊塗するために後から創作された、と説いている(『鎌倉殿と執権北条氏』NHK出版、2021年)。逆に川合康氏は、延慶本『平家物語』に時政・義時が甲斐国に赴いたと記されていることから、『吾妻鏡』八月二十七日条に見える時政・義時の安房渡海は後世の創作で、先に安房に到着していた時政らが頼朝を出迎えたとする同月二十九日条も事実ではない、と主張している(『源頼朝』ミネルヴァ書房、2021年)。要するに坂井説は石橋山⇒安房説、川合説は石橋山⇒甲斐説である。

いずれとも決しがたいので、拙著『頼朝と義時』では『吾妻鏡』に書いてある通り、甲斐行きを取り止めて海路に漕ぎ出したというコースを採用した。『鎌倉殿の13人』も基本的には『吾妻鏡』に準拠しているようである(ただし、この時点では北条時政・義時は武田信義とまだ会っていない)。

 

頼朝の涙

挙兵後の源頼朝にとって、石橋山合戦は唯一の敗戦であり、平治の乱と並ぶ人生最大の危機だった。工藤茂光、北条宗時ら主要な家人を失い、初期頼朝軍は壊滅した。

この大敗は、後々まで源頼朝の心に深い影を落とした。天下を取った後、頼朝は二所詣(伊豆山権現と箱根権現、三島社の参拝)を行うようになったが、伊豆山権現(伊豆山神社)を参拝するために石橋山を通過するたびに、石橋山合戦で死んだ佐奈田与一義忠(岡崎義実の息子)の墓を見て涙を流した。参拝前に泣くのは縁起が良くないということで、三島社(三島大社)、箱根権現(箱根神社)を先に参拝してから伊豆山権現を参拝し、帰路に石橋山を通るようにコースを変更したという(『吾妻鏡』文治六年正月二十日条)。冷酷と言われる頼朝のもう一つの顔である。

伊豆国周辺地図〈坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版)などを基に編集部作成〉

それはさておき、房総半島で再起を期す源頼朝にとっての最重要課題は、上総広常を味方につけることであった。頼朝の人たらしの魅力は広常に通用するだろうか。次回に期待したい。

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