異端審問官にスピノザを売った男、ニコラウス・ステノの生涯

なぜ彼は科学から手を引いたのか?
スピノザの「裏の主著」である『神学・政治論』の禁書化からおよそ1年、彼の暮らしていたハーグでの審議によってスピノザは監視下に置かれ、出版することが不可能になった哲学上の主著『エチカ』――その写本がバチカンの異端審問書庫で発見された背景には、とある科学者/宗教家の姿があった。
吉田量彦氏がスピノザの生涯と思想を綴った最新刊『スピノザ
 人間の自由の哲学』から、『エチカ』の「バチカン写本」についての挿話を抜粋して公開します!

『エチカ』はいつ頃完成したのか

それから10年後、次に話題に上った時点では、『エチカ』は「五部から成る」著作と呼ばれています(書簡62)。時期的に考えても、すでにわたしたちが知る『エチカ』とほぼ変わらない形まで仕上げられていたのでしょう。

さらにいえば、これに先立つ1675年7月5日付のスピノザからの手紙(残念ながら残っていません)では、彼は『エチカ』の完成を報告し、その出版計画についても語っていたようです。つまり先ほど述べたように、あのハーグの決議文(6月21日)が残されたのとほぼ同時期に、実際スピノザは『エチカ』出版に動き出していたらしいのです。

しかし、この計画がただちに実を結ぶことはありませんでした。書簡62への返信として書かれた1675年9月ごろの手紙(書簡68)によると、この年の夏、恐らく(ハーグで出された前後の書簡の日付から逆算して)7月末から8月半ばまでのどこかに、スピノザはアムステルダムに出かけていました。

出版計画を前進させるためだったのですが、どうも現地はそれどころではない空気になっていたようです。「神が存在しないことを立証しようとした、神についての著作をわたし[=スピノザ]が印刷しようとしている」という噂が至る所に流れていて、とても身動きが取れる状態ではなかったのです。

どうやらこうした「噂」はハーグ方面から口コミで流れてきたようなので、先ほど紹介した「審議会」の構成員たちが何か薄汚いことを企んでいたのではないかと思われますが、決定的な証拠はありません。ともかく、空しくハーグに戻ってきたスピノザは、『エチカ』の出版を「ことの成り行きがわかるまで」凍結することに決めます。

凍結とは言ったものの、彼自身手紙の中で「事態は日に日に悪い方向に向かっているらしく、わたしにはどうしたらいいか全く見当がつきません」(書簡68)という心情を素直に吐露していますから、半ば断念に近い凍結だったことが分かります。

異端審問書庫から見つかった写本

結局『エチカ』がスピノザの生前に刊行されることはありませんでした。出版計画の頓挫がよほどこたえたのか、スピノザはこれ以後、面識のない人物が『エチカ』の閲覧を求めてきても用心深く対応しています(書簡72)。

こうして『エチカ』は、時に応じて書き写され、信頼のおける(と、スピノザに認められた)一握りの人たちだけが手書き写本の形で所持することになったのです。

しかし、いくらスピノザに信頼された粒ぞろいの友人知人といっても、中にはドジを踏む人もいたようです。それを物語るアイテムが、なんと21世紀に入ってから発見されました。俗に『エチカ』のバチカン写本、あるいはバチカン手稿と呼ばれている古写本です。

その第一報がオランダの新聞(のウェブサイト)経由で飛び込んできたのは、2011年の梅雨入り直前の時期でした。それによると前年(2010年)の10月、ローマ・カトリック教会の牙城バチカンにある異端審問関係の資料庫で、『遺稿集』以前に遡る『エチカ』の古い手書き原稿が発見されたというのです。

残念ながらスピノザ本人の自筆草稿ではないものの、恐らくは自筆草稿から丁寧に写し取られた写本ということでした(世の中にはすごい人がいるもので、現在では筆跡鑑定によってだれが写したかまでほぼ特定されているのですが、話の大筋に関係ないので省略します)。