2児の母で26歳になった今、現役復帰を公表した元飛込み日本代表の馬淵優佳さん。その飛込みで2021年の東京五輪の際、世界中のアスリートが競技後に大きな拍手を贈った日本人選手がいる。寺内健選手(ミキハウス所属)、41歳。北京五輪開催中の2月12日には、世界水泳の出場権を賭けた国際大会代表選手選考会に出場する予定だ。

寺内選手はどのようにして五輪に出場するアスリートとなっていったのか。そして競技人生30年のうち6回も五輪の日本代表として出場し続けた背景には何があるのか。
寺内選手のコーチをつとめてきた馬淵崇英コーチの娘であり、かつてはともに練習をかさねていた優佳さんが率直な話を伺った。

まずは7ヵ月のときから競泳を始めていたという寺内選手が「飛込み選手」になるまでをお聞きしていく。

寺内健さんと馬淵優佳さん。一緒に練習をしていた仲だ
 

東京五輪のスタンディングオベーション

競技時間がもっとも短いとされる飛込競技。空中に飛び出し入水するまで、わずか1.6秒。その1.6秒の技の中の美を表現することに30年もの月日をかけた選手がいる。「寺内健」と聞けば飛込み界では知らない人はいない。高校1年生だった時の1996年のアトランタオリンピックから6大会オリンピックに出場。6度目となった2021年の東京オリンピックでは、美しく完璧な演技を見せ、シンクロ5位、個人12位という成績を収めた。最後の演技が終わると、観客席にいた選手や、競技関係者からスタンディングオペーションを受けた。私は3歳のころから競技をはじめ、オリンピックもワールドカップも飛込み競技をずっと観てきたが、こんなスタンディングオベーションを見るのは初めてだった。

多くの人々を長年に渡り、魅了し続けている寺内選手は、オリンピックでメダルをとることだけがゴールではないということを、生き様を通し、体現しているように感じる。私が生まれる前から私の父である馬淵崇英コーチに指導を受け、私はその厳しさをそばでずっと見てきた。今回改めて寺内選手にこれまでの競技生活を振り返ってもらった。

「小学校1年生の時から競泳を習っていたんです。ただ毎日2時間泳いで試合に出る繰り返し。けれども、身体が小さかったこともあって成績が思うように出ませんでした。小学校中学年くらいにしんどいことをしているなっていう思いがあって、そのときにたまたま崇英コーチに声を掛けていただいたんです。小学5年の時、競泳の練習をやめる為に、逃げるような形で飛込に移ったのが始まりなんです」

私の父である崇英コーチが中国から飛込みを指導する為に来日したのは1988年のこと。89年からJSS宝塚のコーチに就任し、ちょうど選手を集めようと思っていた矢先の91年、崇英コーチはダイヤの原石を見つけた。それが、競泳から逃げるように飛込みの世界に入った寺内選手だった。

寺内選手にとっての飛込みは、最初は想像通り、楽しくて仕方がなかったそうだ。しかし、その楽しい時間もつかの間だった。

「小学校5年生から飛込みを始めて、最初の3ヵ月は好きな高さで好きなことをしていいって言われていたんです。ぴょんぴょん跳ねて最高なアドベンチャーやな!って思いました。ただ、その3ヵ月後、練習時間が急に早まって『16時半に来て』と語る崇英コーチの表情が今までとまったく変わったのを今も覚えてます。なんか違うんかなと子供ながらに何かを察しましたね(笑)」

練習時間が延びた初日からはやることが全く違ったという。柔軟に何時間も費やし、ひたすら陸上での基礎練習。プールでも地味な基礎演技ばかりの練習。想像していた飛込み競技とは全く違う地道な練習に早くも根を上げた。

「その日だけで、正直言うと辞めたくなりました。その日から泣いてるもん。競泳やめて、楽しいことしにきたはずなのに……けれども何となく明日は違うはず!って言い聞かせながら日が進んでいくんですよ。それが1ヵ月経った時には、何となく自分の中でもの凄く大変な世界に入ったんだなって理解しました」

13歳のとき、崇英コーチと 写真提供/馬淵崇英