【第1回】54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」
【第2回】手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実
【第3回】文字が書けない…54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授の苦悩
【第4回】失意の元・東大教授は、なぜ「若年性アルツハイマー」を公表したのか?
【第5回】「ぼくは、エイリアン」54歳で若年性アルツハイマーになった東大教授が見た世界
【第6回】元・東大教授が「若年性アルツハイマー」になって見つけた「意外な楽しみ」
【第7回】アルツハイマーを発症した元・東大教授が、言葉を失いつつも講演を続けた理由
弱っていく体、澄んでいく心
講演行脚をやめる少し前から、晋(すすむ)の体は目に見えて衰えていき、それにつれて私たちの生活も変化していきました。
■2010年
この年に介護保険を使い始めたことはすでに書きました。家で私たちは畳に布団を敷いて寝ていましたが、晋が立ち上がるのが難しくなったのがこの頃です。
幸い、ケアマネジャーさんが介護ベッドの導入を提案してくれたおかげで、解決することができました。
■2012年
講演を通じて偶然知り合った医師の助言をきっかけに、デイサービス(デイ)に通い始めました(後で書く通り、うまくなじめず、いくつかのデイを転々とするのですが)。
この頃から、入浴に危険を感じるようになりました。滑りやすいタイル張りの浴室で、晋の大きな体を支えられるか、それだけの力が私に残っているか、不安になったのです。
ケアマネジャーさんに相談したところ、さっそく屈強なヘルパーさんを紹介してもらうことができ、見守りと介助を受けられるようになりました。
■2015年
晋の要介護度は、最重度の「5」に引き上げられました。
そして、この年のある日、ついに晋が立ち上がれなくなります。
以前から足が上がりにくくなり、車にも乗れず、外出が減っていました。
ソファに座っても、自分の力だけでは立ち上がることができません。それでも、私が晋の前に立ち、両足で彼の足をしっかり踏んで固定し、手を握って全体重をかけて引っ張り上げれば、まだ立たせることができたのです。
しかし2015年のある冬の日、ついに手伝っても立てなくなりました。私が引っ張り上げるのに合わせて、晋も立とうとします。でも足に力が入らないのか、くにゃ、となってしまうのです。
それまでの「立てない」とは、明らかに様子が違いました。そこで私はまず、彼をなんとか座布団の上に座らせ、その座布団を引っ張って寝室へ移動し、ベッドの横に敷いた布団に彼を転がすように寝かせました。
私は力自慢ではありませんし、晋とはだいぶ体格差があるのですが、これが「火事場の……」というものでしょうか。
ともかく、翌朝ケアマネジャーさんに連絡をとると、さっそく訪問看護師が3人、我が家に飛んできて、晋を布団からベッドに移してくれました。
夏には誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)も経験し、1ヵ月半にわたって入院。
晋にとっては多難な年でした。
■2016年
肺炎で再び入院。しかし前回の入院で、晋には病院での生活が負担になると痛感していたので、自宅での療養を選びました。抗生剤が効き前後10日ほどでデイサービスに通えるくらい回復したのは幸いでした。
こうして晋は、ベッド中心の生活になっていきました。いわゆる「寝たきり」です。

言葉を失い、寝たきりになった晋。
生きていて、幸せなのでしょうか。
尋ねてみたいと思うこともありますが、聞くまでもない、そうも感じます。
南向きの部屋で寝ている彼のもとに、朝日がガラス戸越しに射す。
そのとき彼の目は、重荷をすべて下ろしたかのように澄み切って、平穏に満ちています。その幸せそうな顔を見ていると、問うこと自体が無意味にも思えるのです。
ただ、この静けさに至るまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。