【第1回】54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」
【第2回】手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実
【第3回】文字が書けない…54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授の苦悩
【第4回】失意の元・東大教授は、なぜ「若年性アルツハイマー」を公表したのか?
【第5回】「ぼくは、エイリアン」54歳で若年性アルツハイマーになった東大教授が見た世界
【第6回】元・東大教授が「若年性アルツハイマー」になって見つけた「意外な楽しみ」
【第7回】アルツハイマーを発症した元・東大教授が、言葉を失いつつも講演を続けた理由
【第8回】若年性アルツハイマーを発症した元東大教授が、デイサービスに入って経験したこと
【第9回】ご近所の心ない言葉…元東大教授の夫が若年性アルツハイマーを発症してわかったこと
最後に聞いた言葉
2015年3月、晋がまったく歩けなくなったあとのことですが、また彼が自室で大声を出しているので顔を出すと、
「来て来て、と言っているんだよ」
振り返ってみると、その一言が彼の話した最後の「言葉」になりました。
晋が言葉を出せなくなってからは、話し相手のいなくなった私の口数も減り、そのぶん気を遣うことが増えました。たとえば今日の夕食を考えるとき――。以前なら晋に、「今晩、何食べたい?」とよく聞いたものです。
「何でもいいよ」
そんな答えが返ってくるのですが、しかし今、同じ問いかけをしても、晋はきょとんとするばかり。だから、私がいろいろ考えなくてはなりません。
魚は? 骨があるとだめ。
肉は? かたいとだめ。
××は? このまえ食べたばかりだから、だめ……。
自問自答。
以前なら、料理したくないときは「食べに行こうか」と提案することもできましたが、その選択肢はもうありません。寝たきりの晋にとって、食事は唯一の楽しみでした。ちょっとしたしぐさや気配からそれがわかるだけに、おろそかにもできません。やがて食事は、自然と彼の好きなものに限られていきます。
「がまんして、嫌いなものでも食べないと、と思っても、できないんだ」
晋の言葉が思い出されます。まさにその通りでした。うまく力を入れられず、スプーンを使えなくなっていた晋のかわりに、私が食べ物を口に運ぶのですが、晋は、好物についてはせっせと食べます。
でも、いやなときやお腹が空いていないときは、口を開けません。あるいは、わざと咳き込みます。それが「いやだ」のサイン。
テレビをつけても、見たくないときはやはり、咳き込むふりをします。
音楽も、晋の楽しみです。CDやレコードをかけるとき、私は曲目を尋ねます。晋がうなずくときは「いいよ」の印。

でも、なぜか頭を横に振ることはできないので、いやなときは、私が彼の表情をうかがいます。そして、あんまり反応がないときは、とりあえず曲をかけてみます。
よくかけるCDはおもに讃美歌、レコードなら「メサイア」でした。
途中で晋が「ウォー」と大声を出すと、それは「疲れた」「いやだ」のサインです。
困るのは、晋が暑いと感じているか、寒いと感じているか、わからないことでした。私たちが住んでいる地域は昼夜の寒暖差が大きく、おまけに私は寒がり、晋は暑がり。だから、私にとっての適温が晋にとってもそうとは限りません。でも、寝たきりの晋は自分で調節できないのです。
私が様子をみて、寒そうにしていたら掛け布団を足し、暑そうなら減らしました。私が眠り込んでいるときは、晋が大きな咳をして私を起こします。それが「寒いよ」という言葉のかわりです。私は、あわてて布団をかけます。どうしてもわからないときは、晋の手に触れて、確かめてから調節。
「私は温度調節器だね」
そう言って、ふたりで笑ったこともありました。いや、笑った気がしただけかもしれません。