人は死ぬときどうなるのか?在宅診療医が語る「看取りの作法」

蘇生措置は“儀式”でしかない?

死に際して行う“儀式”

アルバイトで当直をする病院に着くと、まずその病院の医者から申し送りを受けます。今夜は何号室のだれそれが危ない等、亡くなりそうな患者さんを引き継ぐのです。そのとき、「この人は“儀式”はいらんから」とか、「悪いけど“儀式”もよろしく」などと言われます。

別に宗教的な儀式をするわけではありません。これは看取りのときに行う蘇生処置を指す医者の隠語なのです。

具体的には、心臓が止まったあと、強心剤を静脈注射するとか、心腔内投与といって、カテラン針(長さ六、七センチの深部用注射針)で心臓に直接、強心剤を注入したりします。

さらには心臓マッサージの真似事をします。本格的な心臓マッサージは、ベッドのスプリングで力が吸収されないように、背中側にボードを入れ、かつ、胸骨が凹むほど圧迫しなければなりません。高齢者ややせた人だと、肋骨がバキバキ折れます。死にゆく人にそんなことをする必要はないので、軽くやっているフリだけするのです。

そのあとで聴診器を当てて、心拍が再開しなければ、ふたたびマッサージのフリをして、また聴診器で無音を確認します。チラッと家族のようすを横目で見て、まだ不足そうなら、またマッサージのフリを繰り返す。

真剣な顔で、死ぬな、生きろと訴えるような目つきで、額に汗など垂らしてやっていると、さすがに家族もあきらめ、大切な身内の死を受け入れる雰囲気になります。そこでようやく“儀式”を終え、時刻を確認して、「残念ですが……」のセリフとなるのです。

これがなぜ儀式かというと、蘇生する可能性など端からゼロであることをわかって行うからです。つまりはパフォーマンス、無駄な行為ということになります。

なぜそんなことをするのか。それは家族に精いっぱいの治療をしたという納得感を与えるためです。単純に看取って臨終を告げると、あとで「あの病院は何もしてくれなかった」などと言われる危険性があります。それは困るので、無駄かつ当人には残酷とも思える処置をせざるを得ないのです。

「“儀式”はいらない」と申し送られるのは、家族が患者さんの死をすでに受け入れている場合です。そのときは厳かに臨終を告げるだけでいい。看取るほうも楽なら、看取られるほうも余計な処置をされずにすみます。

最近ではインフォームド・コンセントが進んでいるので、病院も患者さん側に事実を伝え、“儀式”をする必要性は減っているかもしれません。こんな無益で残酷なことを減らすためにも、家族の側がしっかりと死を受け入れる心構えが重要です。死を拒んでばかりいると、ロクなことはないということです。