2022.04.09
# 政治政策

西部邁の最大の親友だった東大生が84歳になっても「中核派」議長を務めているワケ

対談 清水丈夫×田原総一朗(後篇)
田原 総一朗 プロフィール

もう一人の盟友・青木昌彦のこと

田原 ノーベル賞候補とも言われた経済学者の青木昌彦さん(元スタンフォード大学教授)も、東大ブント時代に清水さんや西部さんと一緒に戦った同志ですね。青木さんは日経新聞の「私の履歴書」の中で、こう書いています。

《六一年の三月に東京・南青山にあった私の四畳半の下宿にプロ通派のメンバーが全員集まった。清水(丈夫)と北小路(敏)が、革共同に合流しようと切り出した。彼らは我々もすぐ同調すると思っていたらしい。だが即座に西部(邁)が「まっぴらごめん」と言った。私もこれまで思想的にも相容れず喧嘩してきた連中に、政治的便宜主義、ご都合主義で頭を下げるのはとんでもない話なので、一も二もなく同意した。他の連中もそうだった》

清水さんについて「後に革共同の中で凄惨な内ゲバを繰り広げる当事者になる。稀有の才能の持ち主だっただけに惜しいことだ」とも書かれていました。

清水 いやあ、青木は自分が転向したことについて、ルーズな言葉で説明してゴマカシているだけですよ。60年安保の闘争をやっている最中から、彼はいつもどこかに逃げ道があるような中途半端なスタンスをとっていました。だからブント時代の最後には、ほかの活動家から信用がだんだん失われていったのです。

取材が行われた前進社の前には警察車両が常時配置。前進社では、ガサ入れを警戒するため、24時間でモニターで監視している Photo by Shinya Nishizaki取材が行われた前進社の前には警察車両が常時配置。前進社では、ガサ入れを警戒するため、24時間でモニターで監視している Photo by Shinya Nishizaki

田原 二つの道とはどういう意味? 青木さんはブント時代から、革命家として生きる道以外にどこかで「学者になろう」という志向があったということですか。

清水 自分の能力を生かせるのであれば、革命運動ではない道にブレたっていい。心のどこかでそう思っていたから、ちょっとした振れ方の違いでどんどん違う道を進んでしまったのでしょう。西部にしろ青木にしろ、革命運動にはいろいろな波があるものです。

 

田原 ほかの仲間がどんどん転向していくのに、60年以上も変わらず運動を続けてきた清水さんがすごいですよ。

清水 人間がとても単純なんです。

田原 そんなことないです。ちょっとでも展望が見えなくなったら、普通は運動なんて続けられなくなるものですよ。

清水 子どものころ目撃した2.1ストの熱気は強烈でした。あの経験は大きかったです。

田原 1947年2月1日にあるはずだったゼネラルストライキですね。何百万人も参加するはずだったのに、マッカーサーの指令によって潰されてしまった。

清水 結局は中止に追いこまれてしまいましたが、「労働者階級が次の社会を担うのだ。働いている人が社会の中心にならなければ、本当の社会なんてできない」と子どもながらに確信しました。

清水氏 Photo by Shinya Nishizaki清水氏 Photo by Shinya Nishizaki

田原 2.1ストはなんで失敗したんですかね。

清水 共産党が裏切ったせいです。彼らには進駐軍と闘う方針がありませんでした。

田原 共産党は進駐軍の味方だもん。

清水 そうですよ。

田原 共産党だけは進駐軍のことを「解放軍」と呼んでいた。

清水 まったくそうです。

田原 ほかのところは全部「進駐軍」とか「占領軍」と呼んでいた。共産党だけは「解放軍」と呼んでいて、徳田球一も野坂参三も進駐軍とは仲が良かったですよね。

清水 あのとき共産党さえ裏切っていなければ、2.1ストは決行できたはずです。労働者階級が団結して、革命運動の中で力をつけて生産手段を自分の手にしっかり握れば、社会経済を回していくことは難しくありません。革命運動といっても、そんなに難しいものではないのです。大きな意味での歴史の必然ですから、絶対に勝てると昔から思ってきました。

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