2022.04.28

年功序列から実力主義への移行期に受けいれるべき「嘘」とは?

大変革の時代にこそ「公共の嘘」を
社会が大きく変わり、従来の秩序が崩壊しつつある現代、そんな大変革の時代だからこそ、ロシア文学者の亀山郁夫氏は「公共の嘘」が重要だと指摘します。
亀山氏が教養について書き尽くした最新刊『人生百年の教養』から、教養人が受け入れるべき「嘘」について論じた箇所をご紹介します。

破局を回避するための「公共の嘘」

二〇二〇年に顕在化した新型コロナウイルスの感染拡大以降、誰もが世の中の劇的な変化を感じています。

コロナ禍の悪影響はもちろん多々ありましたが、一方で新しい時代のモラルを生み出しつつあります。これまで当然と思われてきたことが見直され、ニューノーマルと呼ばれる新たな日常が打ち立てられることになったのです。

しかしたとえコロナ禍でなかったにしても、社会が大きく変わりつつあることは、誰の目にも明らかでした。ネットを活用した若い世代が、莫大な富を勝ち取っていくベンチャービジネスが生まれ、世代交代どころか一種の下剋上的な気分さえ生まれています。企業のなかで上に立つ人間でも、もはやデータの裏づけなしに「こうだ」と言い切る自信がもてません。上が自信を示せないと、当然、上と下との関係どころか、終身雇用制の意味が根本から薄らいでいきます。

上下関係が年齢によるものではなく、実力によるものになった場合、これまでとは違ったモラルが生まれてくるのは当然のことです。日本の場合、今はまだ年功序列の古い体制の企業が大半を占めているとはいえ、今後、上下関係の様相は徐々に変わってくると思います。

こうした新しい状況下で、どのような人間関係を、上下関係を構築していくことができるのか。この問題は、今ここで簡単に答えが出せるような性質のものではありません。そもそも上下という観念さえ、根本から変わる可能性があるからです。しかし当面の問題としては、そうした人間関係においても「教養知」のしたたかさが発揮されなければなりません。

弱気な人たちの味方の一人として、断固、主張したいことがあります。どのような状況においても、「公共の嘘」を受けいれるしたたかさを忘れるな、ということです。

「公共の嘘」とは、上にある者と下にある者がお互いを傷つけないために、ある種のフィクショナルな合意に甘んじる、同意するという態度です。その場合にはお互いの、つまり弱者は強者の心理を、強者は弱者の心理を読みとり、破綻が起きないようにお互いが妥協できる着地点をあらかじめ想定しておく。大人の発想と言ってしまえばそれまでです。しかしその大人の知恵こそが大切なのです。ドストエフスキーの言葉を思い出してください。

「真実は気が利かないものである」

「リアリズムは、恐ろしい悲劇を人間にもたらす」

日本社会は過密社会で、人口密度が高い。密度が高ければ高いほど、是か非かの「線」を引こうとする欲望が働きます。それに対して人口密度の低い国家、アメリカやロシア、あるいは人口は多いですが広大な国土を持つ中国では、あえて「線」を引かなくても、おのずから線ができてきます。合衆国の理念は、まさにその結果です。

たとえ目には見えなくても、すべての線引きには、非日常的な暴力が付随します。最近のアメリカの「ブラック・ライヴズ・マター」も、二〇一四年の「ユーロ・マイダン革命」以来くすぶり続け、ついに戦争に発展したウクライナ問題にもその側面があります。

つまり、真実や事実をどこまでも探求、追求していこうという姿勢はたしかに尊重すべきですが、合意のもとでの嘘に甘んじ、嘘を自分自身に信じ込ませて破局を回避しようとする知恵、したたかさ、たくましさも大切なのです。嘘を許容する寛容な気持ちがないと、人間社会はうまく回らない場合が多い。「ポスト真実」という場合における「嘘」と、公共の「嘘」では、むろん性質が異なります。「公共の嘘」とは、すこやかな教養の、あるべき姿の一つでもあるのですから。

ただし、「公共の嘘」を受けいれるには、それなりの勇気が必要です。受けいれることによって自分の内面(アイデンティティ)が壊れるような事態となったら、それこそ元も子もないのですから。つまり、「公共の嘘」を受けいれるとは、嘘が正真正銘の嘘であることを見抜いたうえでの決断であるべきだ、と言いたいのです。そしてその嘘を見ぬいたうえで、あえてその嘘に甘んじるというしたたかさ、線を引かない勇気もまた、教養人の強さということができるのです。

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