今回は、佐藤さんが「オッサン」という言葉に込めた問題意識を語った、同書の「はじめに」を特別にお届けします。
女性の政治記者が経験した「壁」
政治記者になって間もないころ、ある大手新聞社の男性政治記者と夜回り前に酒を飲んでいて、言われたことがある。
「大勢いる担当記者の中から一歩、抜け出して政治家に食い込むためには、どうすればいいか。まず、どこの社の記者を『外す』かを考える。俺だったら、女性記者だな。だって一番、外しやすいもん」
海部政権下の1990年、自民党の最大派閥・経世会(竹下派、現在の茂木派)の全盛期だった。
その記者は「だから気をつけろよ」と気軽に忠告してくれたつもりだったのだろう。けれども「女性だから」という理由で外されるのなら、気をつけようがない。
ちなみに「外す」というのは、日本の政治記者の間では、政治家との懇談や、担当記者同士の情報交換の場に入れないことを意味する。
別のある男性記者からは、やや自慢げにこう言われた。
「政治家と仲良くなる最もよい方法は、一緒に女遊びをすることだ。お互いに恥部を握り合うから、いっぺんに仲良くなれる」
もちろん、こんな記者ばかりではない。だが、こういう発言を堂々とできる雰囲気があった。こちらも不快に感じながらも、食ってかかるわけでもなく、ただ愛想笑いを浮かべながら黙って聞いていた。
そして、ぼんやりとこんなふうに考えた。「それならば、外されても支障がないぐらいの情報を、サシで取ってきて勝負するしかないのかなぁ」。「サシ」とは、「一対一」「単独」の取材のことだ。「サシの取材で壁を越えるためには、男性記者の1・5倍は無理でも、せめて1・2倍ぐらいの努力はしないといけないだろうなぁ」。
女性の新聞記者、しかも政治部の記者というと、いわゆるバリキャリ(バリバリと働くキャリアウーマン)を思い浮かべる人が多いかもしれない。だが、内実はそんなに格好いいものではない。私自身の記者人生を振り返れば、かなり悲惨なものがある。もっとも、バリキャリのイメージは、もはや「格好いい」ではなく、「あんなふうにはなりたくない」というものに変わっているかもしれない。
自分の政治記者生活はこんなふうにして始まったのだが、話をわかりやすくするために、簡単に自己紹介をしたい。
私が新聞記者になったのは、男女雇用機会均等法が施行された翌年の1987年。毎日新聞に入社し、長野支局勤務を経て、1990年に政治部に配属された。
政治記者1年目の夏、総理番や官房副長官番として首相官邸を担当していた時、イラクがクウェートに侵攻して湾岸危機が起きた。これは日本の外交・安全保障政策の転換点となった。

1992年に自民党の竹下派を担当していた時には、派閥会長だった金丸信・自民党副総裁が東京佐川急便から5億円の闇献金を受け取っていたことが発覚し、事件への対応をめぐって竹下派が分裂した。
翌年、自民党の幹事長番をしていた時、竹下派分裂に選挙制度改革をめぐる対立が加わって自民党が分裂した。衆院解散・総選挙の結果、非自民の細川連立政権ができ、自民党は野党に転落して、戦後日本の政党政治を形づくってきた「55年体制」が終わった。
その後、私自身は、大阪社会部で横山ノック大阪府政を担当したり、米同時多発テロ直後からイラク戦争をはさんで米国ワシントンD.C.に特派員として駐在したりしたが、基本的には政治部の記者だ。
そして2017年に全国紙で初めての女性の政治部長になった。全国紙とは、朝日、毎日、読売、日経、産経の5つの新聞を指す。「令和」に元号が変わる前日、「平成」最後の日の2019年4月30日までの、2年1ヵ月間の政治部長の生活だった。
「女性初」「初の女性○○」という言い方は、私自身ずっと嫌ってきた表現で、そのことについては後で語りたいが、この場では便宜的に使うのをお許しいただきたい。
自分の政治記者生活は「平成」とほぼ重なる。日本政治が冷戦崩壊後に漂流し、混迷し、停滞した時代だ。
この本では、そんな時代を背景に、一人の女性の政治記者が経験し、感じてきた男性社会の「壁」についてつづろうと思う。