一の谷の戦いで「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった!?

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第16・17話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先週放送の第16話「伝説の幕開け」、昨日放送の第17話「助命と宿命」をまとめて解説。さまざまな史料や学説を参照しつつ、木曾義仲追討の流れや、一の谷の戦いで源義経が実行したと言われている奇襲作戦「鵯越の逆落とし」の真相に迫ります。

『鎌倉殿の13人』の第16話では木曾義仲の滅亡と一の谷の合戦、第17話では源義高(義仲嫡男)の死が描かれた。源氏の棟梁としての地位を確立するために手段を選ばぬ源頼朝の冷酷さに、北条義時は戸惑いつつも従う。歴史学の観点から第16・17話のポイントを解説する。

 

木曾義仲の滅亡

寿永2年(1183)11月17日、後白河法皇は「平家追討に向かわなければ謀反とみなす」と木曾義仲を挑発し、多田行綱や源光長ら源氏の武士を動員して院御所の法住寺殿を守備させた。19日、義仲は法住寺殿を襲撃し、光長らを討ち取った(『玉葉』『吉記』)。いわゆる法住寺合戦である。

クーデターを成功させた木曾義仲は後白河院を監禁し、前関白の藤原基房と結んで国政を掌握した。12月10日には、義仲の申請により源頼朝追討命令が出された。翌寿永3年正月11日、義仲は「征東大将軍」に任命された。征東大将軍は天慶三年(940)に平将門の乱を鎮圧するために藤原忠文が任命された官職である。

『鎌倉殿の13人』では、義仲は同じ源氏である頼朝と争うことをためらっているように描かれていたが、現実の義仲は頼朝を最大の敵とみなし、頼朝に反乱軍の汚名を着せるとともに、自己の権威を高めようとしたのである。けれども義仲は強引なクーデターを実行したことで、かえって離反者を増やす結果となった。 

木曾義仲進軍図〈編集部作成〉

法住寺合戦以降の木曾義仲の孤立を見て、平信兼ら伊勢・伊賀の旧平家方武士が源義経に投じた。義経は伊勢平氏の本拠地たる伊勢・伊賀を経由して兵力を集め、南山城に進出した。甲斐源氏の安田義定らも義仲を裏切り、義経に合流した。また頼朝も、前回の記事で説明したように、寿永2年12月に弟の範頼を援軍として派遣している。範頼・義経軍は急速に膨張した。

一方の木曾義仲は、こうした情勢の変化を把握できていなかった。義経軍がわずか1000余騎との情報を受けて、北陸への撤退を取り止め、迎撃を決意したのである(『玉葉』寿永三年正月十三日条)。

寿永3年正月20日、源範頼が近江の瀬田(勢多)を、義経が山城の宇治を攻撃する。義経軍は宇治川の渡河に成功し、義仲方を撃破(宇治川の戦い)、余勢を駆って京中に進攻した。義仲は後白河法皇を連行しようとするも失敗し、敗走途中の近江粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち取られた(『吾妻鏡』『玉葉』)。

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