ミス慶応、ミス青学…「ミスキャンパスコンテスト」の「50年の歴史」を振り返る
それは「時代遅れ」なのか?2020年には上智大学で、昨年は同志社女子大学で、ミスキャンパスコンテストが中止となった。このところのミスキャンパスコンテスト中止の動きは、一般に、昨今のジェンダー平等の観点やルッキズム(外見至上主義)への批判等を受けての 「新しい時代の流れ」のように語られることも多い。
しかし、実はミスキャンパスコンテストは黎明期から、同じような批判にさらされ続けている。実際、1972年に開催された第1回のミス慶応コンテストでは、「女を商品化するミスコンは認めない」としてウーマンリブの団体がコンテスト冒頭に割って入り、演説。乱闘騒ぎになり、途中で追い出され、コンテストが遅れて開催されるという事件も起きている。
それから50年が経った。本稿では、多くの大学で開催され続けるミスキャンパスコンテストの歴史を振り返りながら、それでもその文化が残っている意味を考えてみたい。

1970年代~1980年代の「黎明期」
まずはミスキャンパスコンテストの黎明期を振り返ろう。多くの大学でミスキャンパスコンテストが開催されるようになったのは1970年代~1980年代のことだ。
冒頭で触れたように、慶応義塾大学の文化祭で開催された『第1回慶応ミス・ユニバ―シティ・コンテスト』は、出鼻をくじかれている(*週刊大衆1972年12月14日号)。他にも、青山学院大学では1974年に、早稲田大学では1984年にミスキャンパスコンテストが始まっている。最初は、大学の文化祭のいち催し物として、人集めのために始まったようだ。
当初よりミスキャンパスコンテストは、大学本部や教員による主催ではなく、あくまで広告研究会や文化祭実行委員会といった学生による自主企画として行われており、初期から学内で多くの反発の声を受けている。
上智大学でのミスソフィアコンテストは1976年に開始されるも、1978年には学内の団体「女性問題研究会」が開催に反対して、ステージに上がろうとしたり、シュプレヒコールが行われたりするなど大騒動になり、その後1990年代までに五度にわたって中止となっている(*日経エンタテインメント1997年11月号)。