元エース記者が暴露する「朝日新聞の内部崩壊」〜「吉田調書事件」とは何だったのか(2)

朝日新聞政治部(2)
鮫島 浩 プロフィール

「新聞記者は主役になれない」

迷走はここから始まる。私は世の中をあまりに知らなかった。自分がいざ「鉄鋼マン」になると思うと、「鉄は国家なり」と熱く語る人やヒッタイトの歴史を熟知する人のように鉄に人生を捧げる覚悟が湧いてこなかった。「鉄」に限らずビジネスの世界で生きる将来の自画像がまったく浮かんでこなかったのだ。

一度決断しないと本心に気づかないのは困ったものである。就活の季節はとっくに過ぎ去っていた。内定を断った会社に今一度問い合わせてみた。

そのなかで唯一「今からでも来ていいよ」と答えてくれたのが朝日新聞社だった。当時の採用担当者から「君は新聞のことを知らなすぎる。新聞記者としてうまくいくかわからないけれど、来たいのなら来てもいいよ」と言われ、負けん気に火がついたのである。

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私は大阪・梅田で新日鉄のSさんに会い、内定をお断りした。「どこにいくのか」と聞かれ、「新聞記者になります」と答えた。Sさんは引かなかった。「なぜ新聞記者なのか」と繰り返し迫った。私はとっさに「いろんな人の人生を書きたいからです」と魅力を欠く返答をした。彼は決して譲らず、熱く語った。

「新聞記者は人の人生を書く。所詮は人の人生だ。主役にはなれない。我々は自分自身が人生の主役になる。新日鉄に入って一緒に主役になろう」

熱かった。心が揺れた。私はこののち多くの政治家や官僚を取材することになるが、このときのSさんほど誠実で心に迫る言葉に出会ったことがない。いわんや、朝日新聞の上司からこれほど心を揺さぶられる説得を受けたことはない。

しかし、Sさんの熱い言葉は、彼の思いを超えて、私に新たな「気づき」を与えたのだった。ビジネスの世界に身を投じることへの抵抗感が自らの心の奥底に強く横たわっていることを、私はこのときSさんの熱い言葉に追い詰められて初めて自覚したのである。

「なぜ新聞記者なのか」と繰り返すSさんに、私がとっさに吐いた言葉は「ビジネスではなく、政治に関心があるからです」だった。政治家になろうと考えたことはなかった。政治に詳しくもなかった。なぜ「政治に関心がある」という言葉が出てきたのか、自分でもわからない。

いま振り返ると、一介の学生が働き盛りの鉄鋼マンに「なぜ新聞記者なのか」と迫られ、「ビジネス」への対抗軸として絞り出した答えが「政治」だったのだろう。多くの書物を読んで勉学を重ねた学生なら「学問」「文化」「芸術」などという、もう少し気の利いた言葉が浮かんだのかもしれないが、当時の私はあまりにも無知で無学で野暮だった。「政治」という言葉しか持ち合わせていなかったのだ。

ところが、「政治」という言葉を耳にして、Sさんはついに黙った。ほどなくして「残念だ」とだけ言った。Sさんとの別れだった。彼にとって「政治」とは、どんな意味を持つ言葉だったのか。当時の私には想像すらできなかった。

Sさんに投げかけられた「なぜ新聞記者なのか」という問いを、私はその後の新聞記者人生で絶えず自問自答してきた。客観中立を口実に政治家の言い分を垂れ流す政治記事を見るたびに、「新聞記者は主役になれない」と言い切ったSさんの姿を思い出した。いつしかSさんに胸を張って「主役になりましたよ」と言える日が来ることを志し、27年間、新聞記者を続けてきた。山あり谷あり波乱万丈の記者人生だったが、Sさんと再会して「君は主役になったな」と認めてもらえる自信はない。「所詮は新聞という小さな世界の内輪の話だよ」と言われてしまう気もする。

鉄も新聞も斜陽と呼ばれて久しい業界だ。学生時代の私が進路を決めるにあたり鉄と新聞で揺れたのは、果たして偶然だったのだろうか。私がSさんにとっさに吐いた言葉の後を追うように「政治記者」となり、多くの政治家とかかわるようになったのは運命だったのだろうか。

 

いずれにせよ、私は「新聞記者は主役になれない」という言葉を背負って朝日新聞に入社した。そこには新聞記者を志し、とりわけ朝日新聞に憧れて難関を突破してきた大勢の同期がいた。朝日新聞記者の初任給は当時、日本企業でトップクラスだった。日本の新聞の発行部数はまだ伸びていた。1994年春である。

太平洋の向こう側、アメリカ西海岸ではIT革命が幕を開けようとしていた。

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