意外なところで繋がっていたウクライナと日本

今なお続く、ロシアによるウクライナ軍事侵攻。停戦交渉が長引き、ウクライナ難民は周辺諸国に助けを求め流出し続けている。また、ドネツクなど東部への攻撃が激化しているというニュースも。ロシア軍が弱体化しているという報道もあるが、残念ながら停戦へのにはまだ道のりはまだ遠いようだ。

2月24日のロシア侵攻から約4カ月、現地で現状はもちろん、ウクライナに関する歴史などさまざまなウクライナ事情が報道されてきた。その中、「ベアテ・シロタ・ゴードンという女性を知ってほしい」と話すのは、米国小児精神科医でハーバード大学医学部アシスタントプロフェッサー、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長の内田舞医師だ。

彼女がベアテ・シロタ・ゴードン。出典/『ベアテ・シロタ・ゴードン 憲法草案を起草したアートディレクター』(創造集団440Hz/東京シューレ出版)

「意外と知られていないですが、彼女は日本の戦後の男女平等を作ったウクライナ系の女性です。戦後の混乱期に、未来ある提言に力を注いでくれた人物なのです。ロシアによるウクライナ侵攻が始まってからSNSでこの女性のお話をツイートしました。知らなかった、ウクライナと日本がそんな形でつながっていたなんて、と多くの方からコメントをいただきました」(内田医師)

そんなベアテを通して、日本とウクライナの関係、日本の男女平等について内田医師に寄稿してもらった。

以下より、内田医師の原稿です。

-AD-

ベアテ・シロタ・ゴードンという女性

日本国憲法に「男女平等」を加えることに力を注いだのが、当時まだ22歳のウクライナ系アメリカ人女性、ベアテ・シロタ・ゴードンだったということをご存じでしょうか。

中学生だった頃、父が薦めてくれたのが、『1945年のクリスマスー日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(柏書房)というベアテ・シロタ・ゴードンが著書でした。その本を読み、私はベアテの存在を知りました。

この著書には驚きがたくさんありました。日本国憲法草案が、彼女を含む25名のアメリカ人によって約1週間で作られたこと、日本に民主主義をもたらしてくれたのが日本人ではなくアメリカ人だったこと、そして日本人女性に権利を与えてくれたのがたった22歳の女性だったことに大きな感銘を受けました。私の記憶に大きく刻まれる1冊となったのです。

ベアテが生まれたのは、1923年(大正12年)。父親のレオ・シロタは、ウクライナのキーフ出身で、オーストリアで活躍する有名なピアニストでした。その娘としてウィーンで生まれたのがベアテでした。その後1929年(昭和4年)、父親のレオ・シロタが、ナチスによるユダヤ人排斥が進むヨーロッパから亡命するために、作曲家の山田耕作の招きを受けて、東京藝術大学に就任したことでシロタ家は日本に移住。5歳から15歳の10年間、ベアテは東京で育ちました。

山田耕作氏とシロタ一家。手前の少女がベアテ。出典/『ベアテ・シロタ・ゴードン 憲法草案を起草したアートディレクター』(創造集団440Hz/東京シューレ出版)

その後、ベアテは1939年に15歳でアメリカの大学に入学。世界では、ナチス・ドイツのポーランド侵攻が始まり、第二次世界大戦がはじまった年でもありました。その後1941年12月、大学在学中に、日本軍が真珠湾を攻撃。アメリカと日本の通信が途絶え、日本にいる両親とも連絡を取ることが出来なかったといいます。

終戦後の1945年12月25日にアメリカ市民が日本に入国できるようになり、ベアテは日本に戻り、軽井沢で疎開して生き延びていた両親と再会。日米の文化を理解し、日英の言語を使えるベアテは、22歳にして日本国憲法草案作成チームに指名され、日本国憲法に女性と家庭の法律の草案の担当となったのです。