数々の名曲を残し、「若者のカリスマ」と呼ばれたシンガーソングライター、尾崎豊さんが26歳の若さでこの世を去ったのは1992年4月25日のこと。

早熟の天才ゆえの強烈な熱量と数々のエピソードは、その死後も多くの憶測を呼び、マスコミによる根拠のない「他殺説」までが流布されました。それは当時まだ24歳だった繁美さんが容赦なく叩かれる状況にもつながっていったのです。亡くなって2年が過ぎた1994年、妻・繁美さんが息子の裕哉さんと共にアメリカに居を移すことを決意したいきさつについては、前回の記事「尾崎豊の妻・繁美さんが語る、夫が旅立った30年前のこと、日本を離れたときのこと」で語っていただきました。

今回は、今から11年前、「パパはどうして死んだの?」と尋ねた、息子・裕哉さんへの答えについて伺いました。

以下より、尾崎繁美さんのお話です。

 

豊の死について息子に尋ねられたあの日

「そういえばさ……パパは何で死んだの?」
2011年10月、息子の裕哉は22歳になっていました。「今日、そっちに寄るね」という電話の後、いつものようににこやかに姿を現した彼は、親子ふたりでとった夕食の後、まるで世間話の続きのように私にそう尋ねました。それまで豊の死については、一度も話したことがなく、聞かれたこともありませんでしたので、あまりにも唐突な質問に、私は大きなショックを受けました。

「いつか話さなくてはいけない」とは思いつつ、それまでの間、話す決心がつかず、いつかは訪れるであろう、その“Xデー”が、「ついにきてしまった」——。その衝撃に耐えかねていると、裕哉は重ねて「自殺? 他殺?」とインターネットで検索したのか、驚くような聞き方をしてきました。私は「……事故死かな……。身体が弱っていて、肺水腫で亡くなったの」と答えるのがやっとでした。

「豊の死について、裕哉にすべてを話す時がきた」
そう思い、話すなら、日本ではなく、二人で暮らしたアメリカがいい。もう21歳を過ぎているのでアメリカでお酒も飲める。彼が興味を持っている大学院がサンフランシスコにあるから、そこを見学しがてら、ナパ・ヴァレー(カルフォルニアワインの銘醸地)に寄って一緒にワインを飲むのもいい……。

「久しぶりに旅行に行かない? 親子水入らずで」と裕哉を誘い、急遽マイレージで取ったエアーチケットでサンフランシスコの空港に降り立ったのは、突然の質問から間もない11月9日のことでした。

裕哉さんが生まれて間もないころ。子煩悩だったという尾崎豊さん。写真提供/尾崎繁美