2022.06.06
# 思考法 # 学校・教育

“日本型エリート思考”の限界を3.11の原発事故に見た

新失敗学 正解をつくる技術(3)
「決められた正解を素早く出す」ことが優秀な人とされた時代から「自ら正解をつくる」ことができる人の時代へ。「正解がいくつもある時代」になった今、自分たちで正解をつくっていく必要がある。そして自分たちで正解をつくるとは、仮説ー実行ー検証を回していくことにほかならない。そのためのポイントを丁寧に解説、これから私たちが身につけるべき思考法を明らかにした書籍『新失敗学 正解をつくる技術』から注目の章をピックアップしてお届け。

東大工学部で感じた違和感

私が東京大学に入学したのは1960年のことです。その後、機械工学科修士課程を出てから日立製作所に就職しましたが、2年後に助手として大学に戻り、2001年に定年で退官するまで30年余、工学部で教員生活を送りました。

Photo by iStock

私が所属していた東大工学部は、優等生がゴロゴロいました。もちろん百人いれば数人は、「こいつは本当に頭がいい」と感じる、ものごとの本質を突き詰めようとするタイプもいましたが、大部分がいわゆる優等生タイプでした。たしかに頭の回転は速く優秀ではあるのですが、ものごとの本質を突き詰めて考えるというより、自分がいかに早く正解を出せるか、そして知識量の多さを競うような学生が多かったのです。

そして優等生が大部分だった当時の東大工学部を覆っていた雰囲気もまた、とにかく正解が外にあるのだから、それを持ってきてうまく使おうという、いわば「便宜主義」でした。

その典型的な例が原子力発電です。東大原子力工学科は、私が入学した1960年に設立されました。日本初の原子力発電所による試験発電が63年、初の商用発電が66年ですから、ちょうど私の学生時代は日本の原発の黎明期に当たります。

私は当時、原発はすごいものだなと思っていました。原発の試験発電と同じ1963年、関西電力の社運をかけて建設された黒四ダムが、7年の歳月と171人の殉職者を出しながら完成します。このときできた水力発電所の出力が33万5000キロワットでした。一方で日本初の商用軽水炉として66年に着工し、70年に発電を開始した日本原子力発電の敦賀発電所一号機が、一基で35万7000キロワット、その後は一基70万キロワットを超える原発がどんどん建設されていくわけですからエネルギー量がケタ違いです。

日本にとってエネルギーをどのように確保するかは、明治以来ずっと続く大きな課題です。唯一の原爆被爆国である日本でも、原子力を「平和利用」すればエネルギー問題が解決できる、原発こそ夢のエネルギー源だと考えたのは、とてもよく理解できます。

しかしその反面、原子力畑の人が言っているロジックには、なにか危うさも感じていました。原発が本当に安全なのかという議論は当初から頻繁にされていました。それに対し原子力畑の人たちは、原爆と原発とは構造も違うし、何重にも制御できる仕組みがあるから絶対大丈夫ということを言い続けてきました。

しかし、ものごとの本質を考えれば、ウランという原子量が非常に多いものを使っていることは、原爆も原発も変わりありません。物質の構造で見ると、原子量が多いということは、たくさんの素粒子同士のつながりがあって、そこにエネルギーがたくさん蓄積されているということです。だから、その蓄積されたエネルギーを取り出して使えば、少ない材料から大きなエネルギーを得ることができるという考えです。

先進国の米国がやり始めたことだし、とても便利なものだし、安全も確保される(はずだ)し、放射性廃棄物などの難しい問題は後から考えよう――、こうした考え方は便宜主義そのものです。そうした考え方には当時から違和感を感じてきました。

関連記事