2022.06.10

幾度となく「死」の危機に直面した零戦パイロットが、そのとき「自らの生死を委ねていたもの」

いまから80年前の昭和17(1942)年6月5日、それまで無敵を誇っていた日本海軍は、ミッドウェー海戦で、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻を撃沈され、開戦以来はじめての大敗を喫した。

圧倒的に優勢な戦力を擁しながら、劣勢のアメリカ艦隊に敗れたこの戦いが、「あの戦争」の一つのターニングポイントになったことに、議論の余地は少ないと思う。この海戦に参加した隊員たちのほとんどはいまやこの世にないが、筆者の27年間におよぶ取材アーカイブから80周年を機にミッドウェー海戦を振り返る。シリーズ第3回は、味方艦隊上空で襲いくる米軍機と死闘を繰り広げ、ついには味方の対空砲火に撃墜されて海上を漂流した零戦パイロットの回想である。

<【前編】味方空母の対空砲火に撃墜され、サメのいる海を漂流した…零戦パイロットの「九死に一生」>に引き続き、藤田の生涯を語る。

 

サメのいる海を泳いだ

3隻の空母が大火災を起こし、ただ1隻残った「飛龍」が必死の反撃を試みたが、海上を漂流している藤田には味方艦隊に何が起きているのかわからない。ライフジャケットをつけているので浮力はあるが、泳いでいるうち、身につけているものが海水を含んで重くなってくる。飛行帽、手袋、飛行靴と順に脱ぎ捨て、しまいには靴下まで邪魔になって脱いでしまった。

サメのことが気になったが、サメは自分よりも長いものは襲わないと言われていたので、首に巻いていたマフラーをほどいて腰に結んで垂らす。ところが、泳いでいるうち海水が胸元から入って寒くなってきた。ミッドウェー島付近は、艦の上では暑くても、海水温度は体温よりも低い。我慢できなくなって、せっかく垂らしたマフラーを手繰り寄せ、また首に巻きなおす。

「サメに食われたら仕方ないわい」

と諦めることにした。

しばらく泳いでいたが、味方の艦隊は一向に近くならない。藤田は、兵学校時代の遠泳で、10浬(カイリ。約18.52キロ)を12時間かけて泳いだことを思い出した。黒煙までの距離はざっと20浬はある。そう考えると、いまの体力で泳ぎつくのは不可能であると悟った。

朝、昼と食事も摂らずに戦ったので、急に空腹感に襲われた。藤田はじたばたするのをやめ、海面に大の字になって、暖をとるため手と足の先だけを水面から出した。うねりに身を任せて青空を見上げていると、味方の水上偵察機が1機、真上を飛んだ。手を振ったが、その水偵は気がつかなかったのか、あるいはうねりが高く着水できなかったのか、そのまま飛び去ってしまった。ふたたび静寂がやってくる。

「何もすることがないので、自分の手を見て手相を勝手に判断したり、瞑想にひたっていましたが、空腹と疲労のせいか、だんだん眠くなってきました。こんなウトウトした状態のまま死ねたら楽だな、などと考えているうち、ほんとうに眠ってしまったようです。

墜落して4~5時間も経ったかと思われる頃、なんだか周囲が騒がしくなったので目を覚ますと、なんと『赤城』が燃えながら約1000メートルのところにいる。まだスクリューが回っているようで、少しずつ動いていました。

駆逐艦『野分』が『赤城』の警戒をしながら私のほうへ向かってくるので、これは助かったわいと思って泳いでいくと、『野分』の機銃が私を狙っているのに気づいた。首だけ出して泳いでいたら、遠目には日本人だかアメリカ人だか、見分けはつきませんからね。また味方に撃たれてはかなわんと思い、あわてて立ち泳ぎをしながら手旗信号で、『ワレサウリユウシカン』(われ『蒼龍』士官)とやったんです。やがて銃口が上がったので安心して泳ぎつき、舷側から垂らしてくれた縄梯子を上って、ようやく甲板にたどりつきました。

『野分』には私のクラスメートが2名、それぞれ水雷長と航海長として乗組んでいましたが、そのうちの航海長が、望遠鏡で私と認めて救助を命じてくれたそうです。気が緩んだためか、一時的に記憶喪失症のようになりました。だからいまでも、戦争中のことはどうしても思い出せないことが多いんです。――これは、歳のせいかもしれませんがね」

「蒼龍」が沈んだので、藤田はそれまでの思い出の写真や、私物をすべて失った。

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で敵機の攻撃を受ける空母「蒼龍」

「ミッドウェー海戦で私は、確か10機を撃墜し、そのうち7機は協同撃墜と記録されていたと思いますが、何機撃墜しても味方の母艦が全部やられてしまっては、任務を果たせなかったのと同じですから……」

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