2022.06.13

「ミッドウェー」で戦った「日米の元軍人」が60年後に再会して交わした「まさかの会話」

いまから80年前の昭和17(1942)年6月5日、それまで無敵を誇っていた日本海軍は、ミッドウェー海戦で、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻を撃沈され、開戦以来はじめての大敗を喫した。

圧倒的に優勢な戦力を擁しながら、劣勢のアメリカ艦隊に敗れたこの戦いが、「あの戦争」の一つのターニングポイントになったことに、議論の余地は少ないと思う。この海戦に参加した隊員たちのほとんどはいまやこの世にないが、筆者の27年間におよぶ取材アーカイブから80周年を機にミッドウェー海戦を振り返る。シリーズ第4回は、味方艦隊を守る上空直衛の任務についた零戦パイロットの悔恨である。

 

恩讐を超えて肩をたたきあう日米の元軍人

原田要(はらだ かなめ) 空母「蒼龍」戦闘機隊(零戦)当時海軍一等飛行兵曹

大正5(1916)年、長野県生まれ。昭和8(1933)年、水兵として横須賀海兵団に入団。その後飛行機搭乗員を志し、昭和12(1937)年、第三十五期操縦練習生を首席で卒業、戦闘機乗りとなる。空母「蒼龍」戦闘機隊の一等飛行兵曹として真珠湾作戦(機動部隊の上空直衛)に参加ののち各地を転戦、昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦では「蒼龍」が沈没、海上を漂流する。

次に空母「飛鷹」に転じ、同年10月、ガダルカナル島上空で敵戦闘機と刺し違え、重傷を負う。その後は内地で教官任務にあたり、千歳基地で終戦を迎えた。協同、不確実をふくめ、15機の敵機を撃墜した記録が残っている。終戦時中尉。戦後は幼稚園を経営、幼児教育に後半生を捧げた。平成28(2016)年歿。享年99。

飛行機搭乗員になる以前の原田要氏(右下)

日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾奇襲攻撃から60周年となる平成13(2001)年12月7日(米時間)、筆者は「零戦搭乗員会」が主催する慰霊旅行に参加して、真珠湾を望むオアフ島の式典会場にいた。

この旅行には、真珠湾作戦の参加搭乗員をはじめ、旧海軍の飛行機乗りを中心に約50名が参加し、8日間の日程で真珠湾攻撃ゆかりの戦跡をめぐった。さらに、日米の戦没者を追悼し、また、互いに戦火を交えたアメリカの退役軍人たちと交流し、双方の体験者が戦争を振り返るシンポジウム、パネルディスカッションなども活発に催された。

米陸軍博物館の売店では、日本のパイロットの六ッ切り(8×10インチ)に引伸ばされた飛行服姿の写真が1枚6ドルで売られ、飛ぶように売れていた。米側の要望でサイン会もしばしば開催され、その都度、数100人ものアメリカ人が無邪気に列をつくった。

真珠湾と、高台にある国立太平洋墓地で行われた記念式典には、同時多発テロの際に活躍したニューヨーク市の消防士や警察官、犠牲者の遺族らも招かれ、計約5000名が参列する大規模な式となった。攻撃が開始された午前7時55分、参列者全員で、平和を願って黙祷が捧げられる。式典の前後には、日米の元軍人が恩讐を超えて肩をたたきあう姿があちこちで見られた。

空母「蒼龍」に乗組み、母艦の上空直衛として真珠湾作戦に参加した原田要(はらだ かなめ)もその一人である。その後、昭和17(1942)年6月5日のミッドウェー海戦で「蒼龍」が撃沈され、九死に一生を得た原田は、式典会場で、ミッドウェー海戦で零戦隊と戦火を交えたアメリカ海軍の元雷撃機パイロット、ロバート・H・オームと「再会」した。

オームは真珠湾攻撃の当日、地上の基地でその惨状を目の当たりにし、ダグラスTDBデバステーター雷撃機に搭乗して参加したミッドウェー海戦では、乗機が原田ら上空直衛の零戦によって撃墜され、長時間、海面を漂流したのちにようやく救助されたという。原田もこのとき、敵機5機を撃墜したのち、母艦が沈められたため海上に不時着、4時間にわたって漂流している。

2001年、真珠湾攻撃60周年式典で、原田氏はミッドウェー海戦での米海軍雷撃機の数少ない生存者ロバート・H・オーム氏と「再会」し、互いの健闘を讃え合った(撮影/神立尚紀)

戦場で直接、命のやりとりをした当事者同士の心情は想像するしかない。だが、似通った互いの境遇に親しみも増したのかすっかり意気投合、

「あの状況でよく生きてたね、会えて本当によかった」

「Me too!I like you!」

と固い握手を交わした。

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