中国の統治システムを作ったのは、漢民族ではなくモンゴル系だった

律令制も、「科挙」も、均田制も
日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)から、おもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。今回はその二回目だ。→ 一回目はこちら

漢民族はいつも亡国の民だった

学校教育などで、我々の多くは強大な中華帝国が東洋史の「中心」で、その周りの国や地域、民族は「周辺」であると無意識に植え付けられています。それもそのはず、世界史の教科書では、東洋史のほとんどのページが中国史に割かれ、近隣は「その他」として付属的に扱われているため、中国が中心というイメージを誰もが持ってしまいます。しかし、こうした「中国中心史観」なるものが歴史の実像を見る上で歪んだ先入観を我々に与えています。

中国の統一王朝で、漢字を使う漢民族が作った王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国の主要統一王朝は「秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清」と9つ続きますが、そのうちの5つが異民族の作った王朝です(本来、北方遊牧民を「異民族」と表現すること自体が適切ではありません。遊牧民からすれば、漢民族が異民族であるからです)。秦、漢、晋、明の4つのうち、秦と晋は短命政権で、わずか漢と明の2つだけが実質的な漢民族の統一政権でした(秦の建国者のルーツはチベット系の羌族であるとする見解もあり)。

漢民族はそのほとんどの時期において、異民族に支配されている亡国の民であり、自分たちの国を自分たちの意志で統治することができなかったのです。その漢民族を「中心」とし、北方遊牧民を「周辺」とするのが教科書や一般的概説書の捉え方ですが、歴史のほとんどの時期において支配を被っている者を、本当に「中心」と呼べるでしょうか。

本来、支配をする者が「中心」であり、その意味において、中国北部の遊牧民エリアにこそ力の中心軸があり、その中心軸が南方にも及び、中国王朝は形成されてきたと考えるべきです。北方遊牧民を「周辺」とする見方では、中国や東アジアの歴史の実態は決して見えてきません。

また、「周辺」という言い方には、「中心」よりも野蛮であることが言外に含まれています。実際に漢民族は自分たちを文明(華)の中にいる存在として「中華」と位置付け、その近隣の異民族を文明の外にいる野蛮人と蔑んでいました。漢民族ら農耕民族がその文明の洗練ゆえに軟弱化し、一方、粗野な北方遊牧民が厳しい環境下で屈強さを失わず、ついには農耕民族を征服するのだという一見もっともらしい理由付けに多くの人が納得しているかもしれませんが、それは間違っています。

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