中国の統治システムを作ったのは、漢民族ではなくモンゴル系だった

律令制も、「科挙」も、均田制も
宇山 卓栄 プロフィール

漢は北方遊牧民の属国だった

漢王朝の建国者の劉邦は、白登山の戦いで北方遊牧民の匈奴に敗退し、屈服しました。漢王朝は大量の貢物と一族の娘を人質として匈奴に嫁がせることになります。漢王朝は50年間、匈奴の属国だったのです。最初の本格的な統一王朝の漢が北方遊牧民の属国としてスタートしたということは、その後の中国王朝の性格を表す象徴的な出来事でした。

劉邦を屈服させた匈奴はモンゴル系民族とされますが、トルコ系民族とする見方もあります。はっきりとわかっていないことが多いものの、モンゴル系を中心にトルコ系も交ざっていたと見るのが実態に近いかと思います。匈奴の支配領域の中心部がモンゴル高原であったことからもそのことがうかがえます。

モンゴル系はモンゴル高原(現在の内モンゴル、モンゴル国、南ロシア)に居住し、トルコ系はその西方のモンゴル高原西部、アルタイ山脈沿いの地帯、カザフ草原、タリム盆地に居住していました。つまり、この地域の遊牧民は東方のモンゴル系、西方のトルコ系に大別できます。匈奴は東方と西方の2つの領域に跨がっていた複合国家であり、民族や部族の名を示すものではありません。

匈奴に続き、モンゴル系は古代から中世にかけて、北魏、遼、元を建国します。同じモンゴル系でも部族や居住領域が異なり、考え方も異なります。匈奴はかつてモンゴル高原全体を支配しましたが、その東部から鮮卑族が台頭し、匈奴は南方(現在の内モンゴル)へと追いやられ、最終的には鮮卑族に吸収されます。鮮卑族は内モンゴル東部から満州西部に居住していました。匈奴が漢民族と直接対立していたのに対して、鮮卑は漢民族と連携することが多く、中国文化を受け入れていました。

 

こうした伝統もあり、鮮卑が北魏を建国した時、6代目孝文帝が徹底した中国化政策を行い、モンゴル人の文化・風習を捨て、漢字などの中国文化を取り入れ、漢民族との婚姻を進め、わずか100年で華北に侵入したモンゴル人は中国化されました。

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