中国の統治システムを作ったのは、漢民族ではなくモンゴル系だった

律令制も、「科挙」も、均田制も
宇山 卓栄 プロフィール

宋は契丹族の国の属国に

遼を建国した契丹族は鮮卑族から派生した亜種です。鮮卑族の居住エリアよりも東方の、遼東半島北部を流れる遼河水系上流のシラムレン川流域(現在の内モンゴル自治区東部)に居住していました。

かつて契丹は鮮卑や突厥に従属していましたが、トルコ系の突厥がモンゴル高原を去り、西方へ移動すると急速に勢力を拡大し、10世紀に満州からモンゴル高原に跨がる強大な王朝を建国します。さらに、唐滅亡後の中国の混乱に乗じて、万里の長城の内側の領域である燕雲十六州を獲得しています。また遼は宋に攻め入り、1004年、澶淵の盟を結び、宋に莫大な貢物を毎年送らせるよう約束させました。宋は事実上、遼の属国となります。

しかし遼では、中国文化を受容しようとする親中派と契丹の独自風習を守ろうとする保守派との間で派閥争いが続きます。この争いの結果、遼は華北の漢民族に対して中国的な州県制で統治し、北方の遊牧民族を部族制で統治するという二重統治体制を敷き、折衷主義的な妥協策を採用しました。文字においても、彼ら独自の文字文化に漢字を取り入れ、折衷主義的な契丹文字を制定しました。

 

しかし、遼は財力の豊富な宋により籠絡され、政権内部の親中派の数が増え続けます。いつの時代にも、カネで国を売る人間が政治の世界には蔓延るものです。こうして遼は腐敗していき、女真族の金により滅ぼされます。

このように、中国史においては、北方遊牧民のダイナミックな動態が本流としてあり、漢民族はほとんどの時代において、その流れに抗うことができず、翻弄され続け、自らの足で立つことさえできなかったのです。

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