2022.06.17

現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか

「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国
播田 安弘 プロフィール

対馬海峡の横断は至難の業

卑弥呼の時代ならいざ知らず、現代人による実験航海もこのように困難をきわめたのには、1つの明確な理由があります。それは対馬海流の速さです。

筆者は、前著『日本史サイエンス』において、鎌倉時代の蒙古襲来で蒙古軍が敗退した要因の1つに、対馬海峡を横断して上陸するまでに蒙古軍はかなり疲弊していたことを指摘しました*。そこで対馬海流の速度と船の速度をパラメータとして、対馬海峡の横断をシミュレートしています(図「対馬海峡横断のシミュレート」)。

【図(グラフ)対馬海峡横断のシミュレート対馬海峡横断のシミュレート(『日本史サイエンス〈弍〉』より

*記事〈CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点〉https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75515もご参照ください

対馬海流は1.5~2ノットの速さで北上しています。これは海流としてはかなり速い流れです。この海流が流れる対馬海峡を横断するには、海流の約2倍の船速が必要となるのです。それでも航走中に下流側に大きく膨らむので、航行距離は15%ほども長くなります。実験航海が失敗したのは、こうしたことが計画に十分には組み込まれていなかったからです。

速度が出ない古代の船ではなおさら、対馬海峡を横断することは至難の業であるといえます。では、卑弥呼の時代はなぜ、大陸と日本との往来が可能だったのでしょうか。数えきれない試行錯誤はあったにせよ、疑問が残ります。ここに、これまであまり注目されてこなかった大きな盲点があるのではないかと筆者は考えているのです。

【写真】現在の釜山港釜山港。かつて卑弥呼の時代にも、ここから日本を目指す船が出港したのだろうか? photo by gettyimages

出雲大社が絶好の目印に

卑弥呼の船が朝鮮半島から最短距離で帰るには、釜山を出航して、対馬海流が北上している対馬海峡を横断し、九州に向かうことになります。かりに海流とほぼ同じ1.5ノットの速度で船出すると、だんだんと45度の角度で斜航して、北東方向へ流されてしまうことになり、それが大きな困難と考えられていたわけです。

しかし、もともとそのつもりで航海していたとしたらどうでしょうか。つまり、北東に向かう対馬海流の流れにまかせるのです。すると船は、山陰に着きます。じつは釜山から山陰までは、釜山から九州までと距離はほぼ同じです。

釜山を船出し、対馬の北端の韓崎(からさき)から南に向かって出航すれば、そのまま対馬海流に流されて北上し、山陰の益田や浜田に向かって船が進みます。当時の航海では、目標が目に見えることは航路を誤らないために非常に重要です。山陰沖の海では、天気がよければ益田沖あたりから約100km先の三瓶山が見え、浜田沖では約130km先の大山が見えます。

以下に、海上からの、対馬の山、壱岐、隠岐、山陰の三瓶山、大山などの見通し距離を示します。山陰の三瓶山と大山がいかに目印として好適であるかがわかります。

  • 海上から見える山高さ80%の高さ海上見通し距離
  • 大山/1,711m1,369m131km
  • 三瓶山/1,126m901m107km
  • 隠岐焼火山/452m362m68km
  • 対馬御岳/453m362m68km
  • 対馬矢立山/650m520m81km
  • 壱岐丘の辻/213m170m47km
  • 津和野十種峰/989m791m100km
【写真】海岸から見る大山山陰の霊峰・大山。洋上からも遠くからその頂が望めたことだろう photo by gettyimages

さらに、そのまま陸伝いに海路を行けば、出雲の方向に高い塔が見えてきます。スサノオが降りてきて地上の「神の国」となったとされる出雲は、スサノオの子孫の大国主命によって開拓されます。しかしアマテラスの命を受けたタケミカヅチから「国を譲ってほしい」と交渉され、大国主神はそれを了承するかわりに「立派な宮殿をつくって柱を太く立て、千木(ちぎ)を高く差し上げてほしい」と望んだといいます。

いわゆる「出雲の国譲り伝説」であり、このとき建造されたのが出雲大社であるとされています。

出雲大社には、大きな建物の基部が発見されており、高い塔の存在が確実視されています。それがあれば海からは絶好の目印となり、出雲まで容易にたどりつくことができたでしょう。ということは、この塔は、朝鮮半島との交易のため、海からの目印として建てられた可能性もあります。

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