枢密院はこのようにして生まれた!

諮問機関設置をめぐる伊藤博文と井上毅の対立
大日本帝国憲法下における天皇の最高諮問機関として知られる枢密院。いつ、誰が発案し、どのような理由で設置を決断したのでしょうか。枢密院の誕生から廃庁までの60年の軌跡をたどり、これまでほとんど研究されることのなかったその全体像を検証した現代新書の最新刊『枢密院 近代日本の「奥の院」』より、枢密院設立の経緯について述べた箇所を抜粋してお届けします。

起草者ごとに異なる諮問機関のイメージ

枢密院はいつ、誰が発案し、どのような理由で設置を決断したのだろうか。

1890年の国会開設を控え、1886年11月頃からはじめられた憲法編纂事業は、伊藤博文を中心に急ピッチで進められていった。1888年に入ると、憲法編纂もいよいよ大詰めを迎え、2月には憲法の最終草案ともいえる、二月草案が作成された。

この草案とその前年10月中頃に作成された十月草案とを比較すると、方針の大きく変わったところがみられる。二月草案に、第58条「枢密院は天皇の諮問を応ふ」(※1)が新たに挿入され、憲法草案に枢密院が登場したのである。

十月草案以降、伊藤ら憲法起草者たちは憲法原案の審議を行う機関を設置し、憲法発布後も天皇の諮問機関として存続させることで合意していた。けれども諮問機関とはどのようなものなのか、そのイメージは起草者たちの間で必ずしも一致していたわけではなかった。

 

伊藤博文 vs. 井上毅

諮問機関の最初のイメージをつくりあげたのは、憲法起草者のひとり井上毅(こわし)である。

井上は1888年1、2月頃に参議院という諮問機関を構想するが、これは行政各省間、または行政部と司法部間の権限をめぐる争議が起こった場合に判決を下す機関である。いわば、天皇に直結した法制局の類とみてよいだろう。

けれども伊藤は、この参議院に納得しなかった。二月草案後、伊藤は政府の法律顧問ヘルマン・ロエスレルに「枢密院に関する勅令草案」(※2)をつくらせた。4月6日の日付をもつこのロエスレル草案から、伊藤がどのような枢密院をイメージしていたかがわかる。

それは憲法上の予算や会計に関して、政府と議会の間の争議に裁決を下す機関である。しかしこれは井上が諮問機関の守備範囲からあえて外していた、まさに政府と議会の対立のケースにほかならなかった。

一方、伊藤からすれば、ここにこそ諮問機関設置の意味があった。伊藤はこのロエスレル草案を4月17日井上に送る。この草案を読んだ井上は憤懣(ふんまん)を隠しきれなかったのだろう、病を押してわずか2日で反駁(はんばく)の返書(※3)を書き上げて伊藤に送った。

(※1)稲田正次『明治憲法成立史』下、有斐閣、1962年、337頁
(※2)同537〜538頁
(※3)同540〜542頁

関連記事