日独伊三国同盟の締結と枢密院

第二次世界大戦下、枢密院ではどのような議論がなされたのか

大日本帝国憲法下における天皇の最高諮問機関として設置された枢密院。しかし第二次世界大戦下の急速に展開する国際情勢への対処と、総力戦のための強力な指導体制の確立には、明治憲法の牽制と均衡の原理は桎梏となっていきます。枢密院の誕生から廃庁までの60年の軌跡をたどり、これまでほとんど研究されることのなかったその全体像を検証した現代新書の最新刊『枢密院 近代日本の「奥の院」』より、戦時下における枢密院の動向を描いた「第4章 戦争と枢密院 1937〜1947」を一部抜粋してお届けします。

第二次世界大戦下の選択

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへの進撃を開始し、第二次世界大戦が勃発した。大戦勃発直前の8月28日には、平沼騏一郎内閣がドイツからの軍事同盟の提案に翻弄された挙げ句、独ソ不可侵条約の締結によって総辞職していた。日本の外交はどこへ進むべきか。8月30日に発足した阿部信行内閣は平沼内閣の失敗をふまえ、9月4日に大戦への不介入を声明する。

9月13日枢密院で阿部首相兼外相が外交報告を行い、大戦への不介入とともに、欧米諸国を介入させずに日中戦争の解決をはかると、新内閣の方針を説明した。この政府方針に深井英五顧問官は、ドイツとの関係が清算され、自由な立場から国際政治に対応できると歓迎する。

この方針で進んでいったら、日本は別の道を歩んだのではないか、これが1945年2月の深井の述懐である。深井はフリーな国際関係に立ったこのときに、その後の敗北への道とは違う選択肢があったのではないかと、戦局が絶望的となるなかで振り返 っている(深井英五『枢密院重要議事覚書』(1953)、岩波書店、41〜43頁)。

 

1940年に入ると、ヨーロッパ戦線では、4月9日にドイツ軍がデンマーク、ノルウェーに進撃し、大戦は新たな局面を迎えた。5月10日ドイツ軍がオランダ、ベルギ ー、ルクセンブルク、北フランスへの攻撃を開始すると、15日オランダ軍が降伏、6月14日にはパリが陥落し、イギリスの降伏も間近と予測されていた。

ドイツによって蹂躙されたフランス、オランダ、イギリスは東南アジアに植民地を保有しており、日本からすれば、資源の獲得と援蔣(えんしょう)ルートの遮断をねらいとする南進への好機到来の感があった。

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