2022.06.24

【太平洋戦争秘史】意外に多かった皇族・華族の戦没者

高貴なる者の責務を果たした若者たち

皇族、そして、明治維新以降の身分制度の上位者であった華族は、戦前まで、様々な特権を与えられていた。

権力者への忖度が常識となった現代日本の感覚からすれば、彼らには、戦時中、戦場に出ることを回避する特権が与えられていたと思うかもしれない。だが、実際には、彼らは軍人となり、先頭に立って戦うことを求められていた。

海軍兵学校や陸軍士官学校で共に学び、最前線で共に戦った者たちの証言から見えてきたのは、彼らの、権力者の傲慢さとは無縁の、清廉で勇猛な戦いぶりだった。

<【前編】海軍兵学校で「上級生の鉄拳制裁」をくらい、軍人として鍛え上げられた「徳川将軍家の孫」>に引き続き、戦没した皇族・華族について語ります。

 

腰と左胸に被弾

徳川は、戦艦「日向」、重巡洋艦「妙高」、伊号第五十五潜水艦、伊号第二十四潜水艦乗組を経て、軽巡洋艦「北上」通信長だった昭和16(1941)年5月28日、会津松平家第十二代当主・海軍少将子爵松平保男の五女・順子(よりこ)と結婚、翌年、女児を授かった。そして伊号第九潜水艦通信長となり、横須賀鎮守府附のとき日米開戦を迎える。開戦後は軽巡「多摩」通信長、潜水学校特修科学生、呂号第六十三潜水艦乗組と配置を渡り歩き、昭和17(1942)年12月、呂号第百一潜水艦(呂百一潜)水雷長となった。

昭和18年7月、呂百一潜の甲板上で、出撃直前の徳川熈大尉(左下)

呂百一潜は、水上排水量601トン。局地戦、または離島防御のために建造された、就役後間もない小型の潜水艦で、53センチ魚雷発射管4門を装備している。徳川が乗艦してほどなく、昭和18(1943)年1月、呂百一潜は南太平洋に向け出撃。ラバウルを拠点に、ニューギニア、ソロモン諸島沖の海中に潜伏し、連合軍の輸送路を遮断する作戦にあたった。同年2月に日本軍はガダルカナル島から撤退、すでにソロモン海の制海権は敵に握られている。そんななか、呂百一潜も、潜航中、敵艦からの爆雷攻撃で損傷を受けるなど苦しい戦いを続けた。

徳川熈大尉が水雷長として乗組んだ呂号第百一潜水艦

7月12日、ガダルカナル島失陥後の日本軍の最前線拠点だったニュージョージア島ムンダとコロンバンガラ島に来襲した米軍艦船を攻撃するため、両島にはさまれたクラ湾に浮上したまま進入した呂百一潜は、激しいスコールのなか、突然現れた敵の哨戒艦から猛烈な銃砲撃を受けた。哨戒直に立っていた徳川が、「急速潜航!」と叫ぶ。その号令に、艦は即座に潜航、危うく難を逃れたが、最後に艦内に退避した徳川は腰と左胸とに敵弾を受けていて、間もなく絶命したという。

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