2022.06.21
# 日本史

教科書が採用しない、朝鮮半島南部「任那日本府」=日本の支配機構説

史上たった一度、天皇が自ら出陣した理由
宇山 卓栄 プロフィール

「任那日本府」は単なる倭人共同体だったのか

任那日本府の統治領域と想定される範囲(4世紀末)

この倭人共同体は伽耶諸国の現地豪族らと対等の立場で、彼らの連盟的会議にも代表者を送り込んでいたとされます。会議では、倭人代表者は現地の諸豪族に新羅と袂を分かち、日本と親しかった百済に味方するよう促したと考えられています。もしそうであれば、倭人の代表者はヤマト政権の意を何らかの形で汲んでいたことになります。一方、倭人共同体は現地に帰化しており、ヤマト政権の影響を受けずに独自に動いていたとする見解もあります。

韓国の学者は、任那日本府は現地の朝鮮人豪族が倭人をスタッフとした倭との連絡機関であったと主張しています。その時、倭人は現地豪族に隷属していたとも指摘されています。日本の学者も韓国の学者も、日本の影響力を過小評価しようとしているように見えます。

いずれにしても、任那日本府が現地のヤマト政権の支配機構なのか、単なる倭人共同体なのかについて、議論の分かれるところです。しかし、遠く海を渡った外地において、周辺を異民族に囲まれながら、単なる共同体レベルのものが長期的に維持できたとは常識的に考えられません。そこには、土地支配を巡る権利関係の決定など、政治的な力や武力を背景にしなければならないことが多々あったと考えられますし、純粋な共同体なるものが本国の影響力とは独立して、それ自体で存在するなどというのはあり得ない話です。

また、任那日本府が日本の学者たちが主張するような「小領域内にとどまる倭人共同体」であるならば、なぜ『宋書』に倭の五王の朝鮮半島への進出が記されているのか、整合性が取れないことにもなります。

なぜ天皇自ら出陣したのか

「広開土王碑」に記されているように、日本は391年に百済を服属させて以降、約200年以上、朝鮮半島へ大きな影響力を行使しますが、7世紀に中国で唐王朝が成立すると状況が変わります。唐は新羅を利用して、朝鮮半島を統一させようとします。唐の勢いに圧されて、日本の影響力は排除されていきます。

強大な唐の兵力によって、660年、百済はあっさりと滅ぼされました。これに対し、日本は朝鮮半島へ本格介入するための準備をはじめ、人質として日本に来ていた百済王太子の豊璋王を擁立し、軍を起こします。

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