韓国人は、漢民族に「臭穢不潔」と蔑まれたツングース系民族「濊」の末裔なのか

民族と文明で読み解く東アジアの成立ち
宇山 卓栄 プロフィール

歴史から紐解く朝鮮民族のルーツ

高句麗は4世紀末から5世紀に強大化し、満州から朝鮮半島北部にかけて広大な版図を形成しました。

高句麗の第19代の王・広開土王(好太王)はこの時代の王で、朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻めました。百済と同盟を結んでいた日本(大和朝廷)は軍を朝鮮に派遣し、広開土王と戦います。この戦いについて、有名な「広開土王碑文」に記されています。

朝鮮の歴史書『三国史記』によると、扶余の王族朱蒙(チュモン)が紀元前37年に高句麗を建国したとされます。さらに、扶余族は南方に拡散し、朝鮮半島南西部に百済を建国します。7世紀の中国の史書『周書(北周書)』や『隋書』では、百済の王族が扶余族出身で、高句麗王族とも血縁関係があったことが記されています。

5世紀終わり頃、三国時代の勢力図(Wikipediaより)
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百済の都は当初、ソウルを流れる漢江(ハンガン)の南の漢城に定められました。その後、高句麗に圧迫されて、475年、南の錦江(クムガン)中流の熊津(ウンジン)、つまり現在の公州に遷都し、更に538年に、錦江下流の泗沘(サビ)に遷都しています。

泗沘は新羅時代の8世紀半ばに、彼らの民族名を偲び、「扶余(プヨ)」と名付けられて、今日に至ります。百済の最後の都の扶余は百済歴史遺跡地区として、2015年に世界遺産に登録されています。

 

高句麗や百済の歴史からもわかるように、古代朝鮮半島はツングース系の扶余族によって支配されていました。扶余族は濊や貊から派生した部族であり、これが朝鮮人のルーツであると言うことができます。

勢いのあった扶余族が朝鮮半島のみならず、さらに南進し、日本にも到来して、彼らが大和朝廷を樹立したという仮説もあります。これは「騎馬民族征服王朝説」と呼ばれるもので、東京大学名誉教授の江上波夫氏により、1948年に提唱され、広く信じられたことがありましたが、今日では、根拠がないとして否定されています。

韓国の学者で、この説に便乗する者もいます。韓国の東洋大学の金雲会(キムウンフェ)教授は扶余の王族が南方へ移動して百済王になり、さらにその子孫の百済王の近肖古王(クンチョゴワン)が日本に渡って応神天皇になったと主張しています。しかし、前段の扶余の王族が百済をつくったというのは良いとしても、その子孫の百済王が応神天皇になったというのは荒唐無稽で根拠はありません。

百済建国には、いくつかの説があります。朝鮮の歴史書『三国史記』では、高句麗の始祖の朱蒙と扶余の王族の娘との間に生まれた子が百済を建国したことになっています。初め10人の家臣と共に建国したため、国号を「十済」としましたが、百姓たちも建国に協力したので、「百済」となったとされます。

中国の史書『隋書』の「百済伝」には、もう少し現実的なことが記録されています。扶余王の尉仇台(ウィグデ)が高句麗に国を滅ぼされて、百家とともに海を渡った(済海)ので、国号を「百済」としたと記されています。

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