安倍川柳を批判されて即白旗 朝日新聞の出遅れすぎたデジタルシフト

朝日新聞は頭から腐った(3)

朝日新聞政治部』大反響御礼、特別無料公開「朝日新聞は頭から腐った」篇の第3回。

「朝日川柳」に安倍氏銃撃事件を風刺する作品を掲載し、右派からバッシングされると「ご指摘やご批判は重く、真摯に受け止めています」と朝日新聞は即座に降参した。

4.5万部のベストセラーとなっている『朝日新聞政治部』の著者・鮫島浩氏は鮫島タイムスで「自己保身の犬!投稿者をさらし者にする巨大新聞社の背信行為」と批判した。社内では社員の監視と言論統制がますます進んでいる、とも書いている。

朝日新聞のこうした体質は、いまに始まったことではない。言論機関として崩壊していく様が『朝日新聞政治部に生々しく記されている。

久々に会った信頼できる上司

朝日新聞社の言論サイト「論座」を再建するので手を貸してくれないかとオピニオン編集長から誘われたのは2018年春だった。「論座」は硬派月刊誌として創刊されたが、発行部数は伸び悩み、ウェブメディアに転向していた。その後も低迷し、月間100万PV(ページビュー)程度にとどまっていた。

「論座」ホームページ

ウェブメディアとしては少なくとも月間1000万PVはないと他サイトと競争する土俵に立てないと言われていた。会社のデジタル重視の方針の下、論座編集部をオピニオン編集部に編入してテコ入れすることにしたという。論座編集長には新たに政治部出身の吉田貴文さんを起用し、そのもとで私に編集者を務めてほしいという打診だった。

私は「論座」を読んでいなかった。執筆陣に学者や官僚OBが名を連ね、政治・経済・科学など幅広いテーマを扱っていたが、堅苦しい雰囲気があった。ただ、私は特別報道部デスクを更迭されて3年半、知的財産室やGLOBE編集部での謹慎生活に飽き飽きしていた。「僕は必ず復権する」と約束した渡辺勉さんに復権の兆しはなく、彼自身に復権へのパッションも感じなかった。一方、私のツイッターのフォロワー数は1万人を超え、フリーとして独立することを探り始めた時期だった。

論座編集長となる吉田さんは渡辺勉さんや曽我豪さんの1期下、私より8期上の政治部の先輩である。灘高→東大→朝日新聞という経歴で、ツイッターをめぐり私と衝突した中村史郎編集局長とは同期だった。諸先輩によると、政治部では中村さんを上回る活躍をして将来を嘱望されたが、若くして大病を患って政治取材の一線を離れ、世論調査や言論部門を歩んできたという。私とはほとんど接点がなかった。

オピニオン編集部の一角に新設された論座編集部に行くと、常駐は吉田さんと私を含め4人だった。経験したことのない小所帯だ。私は当時46歳。残る3人は50代だった。熱心にウェブを研究している姿に好感を持ったが、それぞれが自分の執筆者を抱え、てんでバラバラに記事をつくっている感じで、編集部としての共通目標がなかった。

私は吉田さんに「ウェブは新聞と違って、一つ一つの記事がどのくらい読まれたかがはっきりわかるフェアな世界です。論座は『良質な記事を載せている』と自己満足してきましたが、ほとんど読まれていません。ここは徹底的に数字で勝負しましょう。月間1000万PVの数値目標を明確に掲げ、サイトデザインや執筆陣を大幅に入れ替え、いちから出直しましょう」と提案した。

達成目標を明示しないで「やった気分」になり、立ち消えになっても誰も責任を取らず、好き嫌いで人事や評価が決まっていく。朝日新聞のそのような体質が私は大嫌いだった。何か新しいことに挑戦すると「朝日新聞がやるべきことか」「リスクが高い」「バランスを欠く」「抗議を受ける」という慎重論があちこちからわいてきて、いつも中途半端で魅力を欠く企画に終わるのだ。

幸いなことに「論座」は社内の誰も注目していなかった。これはチャンスだ。「PV獲得を最優先する」という共通目標をチーム4人が共有し、なりふり構わず「数字」という結果で勝負してみたかったのである。

吉田さんは乗ってきた。彼は「僕は若い時に死にかけた。ずっと持病と向き合ってきた。50代になって体調が安定してきたんだ。今から失うものはない」と言った。これは面白くなると思った。この編集長ならついていける。

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