500年も続いた李氏朝鮮、実は設立時から中国に服属していた

『民族と文明で読み解く大アジア史』増補編2
日本の歴史教科書では、アジア全体の歴史の実体を学ぶことはできない。アジア諸民族は古来から多くの闘争を繰り広げてきた。それは21世紀の今も続いている。情勢の行方を見るのに、民族・宗教・文明に着目したアジア史の理解は必要不可欠なのだ。『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)はその理解の一助になるはず。著者の宇山卓栄氏による、この話題の本に収めきれなかった章を連載でご紹介したい。今回はその二回目で、韓国「事大主義」の歴史的淵源を探る。→第一回目はこちら

中国の支配から脱却するために

14世紀の半ば、モンゴルの元王朝の勢力が衰え、新たに明王朝が台頭しました。朱元璋が1368年に明王朝を建国してから20年間、朝鮮は旧勢力の元王朝に付くべきか、新勢力の明王朝に付くべきか、大いに悩み、揺れました。選択を誤れば死あるのみです。朝鮮としては勢いのあった明に付くのが当然と思われますが、朝鮮の武人たちはあえて元に付くことを主張しました。なぜでしょうか。

武人たちの狙いは高麗の独立復興でした。元と明の争いの混乱に乗じて、高麗を中国の支配から脱却させようと考えたのです。そのためには、できるだけ長く、そして激しく、元と明が泥試合をしてくれなければなりません。劣勢の元に、朝鮮がテコ入れして、明と戦わせようとしました。これは危険な賭けであり、成功する可能性は低く、一種の強硬策でした。

武人たちの代表が将軍の崔瑩(チェ・ヨン)でした。崔瑩は倭冦の討伐などで功績があり、清廉な人物で民衆からの支持もありました。高麗がモンゴルの元王朝への従属を強いられてきたことに義憤を感じていた人物で、たとえ国が亡びることになっても従属よりも死を選ぶという武人特有の美学を持っていました。

 

崔瑩らの強硬策に反発し、親明政策を取るべきと考えたのが「新進士大夫」と呼ばれる文人官僚たちでした。親明派は、明の勢いを止めることはできない、明に逆らえば皆殺しにされる、そうなる前に明へ服属するべきだと考えました。現実的な路線でしたが、崔瑩からすれば敗北主義者に見えたことでしょう。中国の混乱は自立へのまたとないチャンスであり、この機を逃せば、朝鮮の隷属が続くと憂いたのです。重臣会議では、両派の討論が永々と続けられました。

高麗時代の末期に、成釣館という研究機関が設置されました。科挙試験に合格した官僚たちがこの機関を運営し、国政に対し大きな影響力を持っていました。成釣館官僚たちの代表が鄭夢周(チョン・モンジュ)でした。鄭夢周らは中国の情勢と実態を掴んでいたため、明に逆らうのがいかに無謀であるかを論じました。

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