大学数学をも翻弄した「ゆとり教育」の"呪い" 令和の数学教育は払拭できるか?

「技術立国日本の再建」担う若者に期待

日本の歴史から考える大学数学の学び

先日の記事〈大学数学にも浸透してきた『暗記だけの学び』〉では、初等中等教育で「理解無視の暗記だけの数学学習」が広がってしまった問題点について述べ、それが大学数学の学びにも浸透してきた状況を改善する目的ももって『新体系・大学数学 入門の教科書』(上・下)を上梓したことを述べた。

今回は、日本の数学の学びに関する歴史的視点から、現在の状況を考えてみたい。

まず、しばしば耳にすることだが、少しでも日本に関心のある海外の人達が疑問に思うことに、「日本は第二次大戦の後で、どうして目覚ましい発展を遂げたのか」ということがある。それに対して筆者が真っ先に思いつく回答は「工業化に向けた数学の教えと学びが、江戸時代から脈々と生きていたから」ということである。

江戸時代には、数学教科書『塵劫記』(吉田光由)が国民の間に普及したこともあって、国民の数学レベルは世界的にも相当高かった。明治維新を成し遂げた人材を松下村塾で育てた吉田松陰は、後に杉浦重剛が品川弥二郎の談話として残した「先生は此算術に就ては、士農工商の別なく、世間のこと算盤珠をはづれたるものはなし、と常に戒しめられたり」(「松陰四十年」、日本及日本人、政教社)という言葉からも分かるように、数学教育をとくに重視していたのである。

【写真】『塵劫記』の誌面『塵劫記』の紙面 kodansha photo archive

技術立国・日本の礎を築いた数学教育者

英国の応用数学者・数学教育者で、熱力学第二法則などで有名なケルビン卿(ウィリアム・トムソン)の門下生であるジョン・ペリー(John Perry、1850-1920)は、1875年から1879年まで日本の工部大学校(東京大学工学部の前身)で教鞭を執り、特に数学の応用面を熱く説き、その後の技術立国・日本の礎の一角を築いた。

ペリーが1901年にグラスゴーでの数学教育に関する講演で述べた8項目は、いずれも重要であるが、筆者がとくに注目するのは、それらの中にある

  • 「数学の学びで得た成果は、人類共通のものだという喜びがある」
  • 「昔も今も、試験に合格するという狭い範囲で数学をとらえる見方があることは残念である」
  • 「数学は自己のためということから離れて、物事を考える重要性を学ぶ」
  • 「数学を介していろいろな原理がよく理解できる」

等々である。

戦後の指導的人材を輩出した"特別科学組"

第二次大戦の末期に、優秀な科学者の育成を目的として設けられた特別科学学級(特別科学組)は、1944年12月から1947年3月までの僅か2年半であったが、その出身者のリストをネットで見ても分かるように、戦後の日本を築いた指導的立場の人達を数多く輩出した。

筆者はかつて、その一人である鈴木淑夫(元日本銀行理事、元野村総合研究所理事長)からレポートをいただき、旧制中学の三学年末までに微分積分や(複素)関数論まで学んだことを教えていただいた。この内容は、現在では大学理系学部の教養レベルである。

特別科学学級に関する他の資料からも分かるが、現行の中学1年、2年、3年に相当するその学年での数学授業時間数は、週8時間であった。数学教育における時間数の問題は、後で詳しく述べたい。

上で述べたような流れが、戦後の工業立国としての目覚ましい発展の礎になったと考える。参考までに述べると、現在の大学数学の基礎として微分積分と並んで学ぶ線形代数は、経営数学の前身である輸送問題*がきっかけとなって戦後から始まったのである。

*輸送問題:ある製品を生産地から消費地まで最も安い費用で輸送する方法を求めるという問題

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