ウクライナ侵攻を支援するチェチェン、ベラルーシはなぜロシアに屈したか

『民族と文明で読み解く大アジア史』増補
ロシアのウクライナ侵攻を積極的に支援する国は数少ない。では、なぜチェチェンとベラルーシはプーチンのロシアと一体になってまで戦争に加担するのか。ロシアの周辺民族であるオセット人、チェチェン人、ベラルーシ人とロシア人との歴史を知れば、それがわかる。『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)の著者・宇山卓栄氏による解説をお届けする。

「グルジア」が「ジョージア」になった理由

プーチンのロシアが軍事侵攻した周辺諸国はウクライナだけではありません。2008年には南オセチア紛争を起こしています。

ジョージア北部に、イラン系民族のオセット人が住んでいます。オセット人は古代イラン民族のスキタイ人やサルマタイ人など、黒海北岸一帯で活動した民族の後裔と考えられています。サルマタイ人の一派であるアラン人が強大化し、コーカサスのイラン系民族を率いたので、彼ら全体が次第に「アラン人」と呼ばれるようになります。中世に「アラン」が「アス」と呼ばれるようになり、グルジア人がこれを「オウス」と発音したため、そこから「オセット」という呼び方となり、現在に至ります。

ソ連時代、スターリンはオセチア人を分断統治するため、オセチア地方を南北地域に分け、北はロシア共和国、南はグルジア共和国の行政管轄下に置きます。1991年、ソ連邦が解体されると、北オセチア(現人口は約80万人)はロシア、南オセチア(現人口は約6万人)はグルジアに、それぞれ別個の国家に属することになり、完全に引き裂かれてしまいます。

南オセチアはグルジアからの分離を求めて独立闘争を展開し、ロシアに協力を求め、接近します。2008年、ロシアが南オセチアへの協力を正式表面したため、グルジアを強く刺激しました。

グルジアのサアカシュヴィリ政権は独立の動きを封じるため、南オセチアに軍を派遣します。この時、ロシアのメドベージェフ大統領(当時)は避暑休暇に出ており、プーチン首相(当時)は北京オリンピック開会式に参加していました。グルジアはロシア首脳部の隙を突くつもりでしたが、ロシアはグルジアの侵攻に充分に備えており、ただちにロシア軍が南オセチアに介入し、グルジア軍を駆逐しました。ロシアは南オセチアの独立を一方的に承認しました。

ロシア軍はその勢いでグルジアに侵攻し、首都トビリシの近郊にまで迫りました。しかしロシアはそれ以上、進撃せず、グルジアと停戦協定を結びます。ロシアは南オセチアを事実上独立させ、親ロシア勢力を形成することができ、成果を上げることができました。

2008年8月16日、グルジアのトビリシでロシアに抗議するグルジア人 Photo by GettyImages

南オセチアを事実上失ったグルジアはロシアと国交断絶し、それまでロシア語読みであった国号の「グルジア」の読み方を変更し、英語読みの「ジョージア」と改めました。

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