小西行長、加藤清正ら秀吉の臣下が朝鮮で苦しんだ最大の敵は、飢餓だった

『民族と文明で読み解く大アジア史』増補編4後
日本の歴史教科書では、アジア全体の歴史の実体を学ぶことはできない。アジア諸民族は古来から多くの闘争を繰り広げてきた。それは21世紀の今も続いている。情勢の行方を見るのに、民族・宗教・文明に着目したアジア史の理解は必要不可欠なのだ。『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)はその理解の一助になるはず。著者の宇山卓栄氏による、この話題の本に収めきれなかった章を連載でご紹介したい。前回と今回で、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に対応した朝鮮と明、そして日本軍の内情を取り上げる。今回は兵站・補給問題の実態だ。

逃げまどう朝鮮王

豊臣秀吉の朝鮮遠征軍の中で、小西行長が首都ソウルに一番乗りしました。小西を驚かせたのは、朝鮮王の宣祖(ソンジョ)がまともに戦おうとせず、民衆を捨てて、我先に逃げたことでした。王が逃げた後、民衆は王宮に押し入り、略奪をし、本殿の景福宮などを放火しました。小西がソウルに入った時には、景福宮は焼け落ちていました。けっして日本軍が景福宮を焼き払ったのではありません。

王に愛想を尽かした朝鮮人の一部が日本に進んで投降しました。彼らは「順倭(スネ)」と呼ばれ、日本軍に協力し、道案内やスパイ活動などを行いました。宣教師のルイス・フロイスは「朝鮮の民は恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって日本兵らに食物を配布し、手真似で何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録しています。

王はその後も敵前逃亡し、開城(ケソン)、平壌(ピョンヤン)、義州(ウィジュ)へ逃げます。義州も安全ではないことがわかると、明へ亡命しようとしました。しかし、大臣の柳成龍(リュ・ソンニョン)が「朝鮮を一歩離れれば、朝鮮を失ってしまう」と反対しました(柳成龍『懲ひ録』より)。

小西は逃げ足の速い王をなかなか捕らえることができず、苛立ちました。日本軍は王をソウルで捕らえれば朝鮮での戦争は終わると考えていました。日本の武士道からすれば、大将である王が我先に逃げることなどあり得ないことであり、想定外のことでした。日本軍は補給線を構築せず、一気に北上したため、戦争が長引けば兵糧が切れてしまいます。

中朝国境沿いの義州まで王を追い詰めながら、小西が更に北上しなかったのは、王が中国の明へ亡命することを恐れたからです。明へ逃げ込まれてしまえば、王を捕らえることができなくなってしまいます。実際に、宣祖は明に逃げるための準備をしていました。分朝(朝廷を二つに分けること)を行い、世子の光海君(カンヘグン)に片方の朝廷を任せ、自分はさっさと逃げるつもりだったのです。

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