2022.07.13

戦前日本が英知を尽くして作った「参謀」たちの生き方とは?

悲惨な戦争を支えた参謀たちの実像に迫る
戦前昭和の日本を支えた参謀たち、戦後は敗戦という結果の悲惨さと深刻さを反映して長らく独断専行、下克上の象徴のように扱われてきました。そんな中、多くの参謀は終戦時に30代から40代前半、その後の長い時期を彼らがどう生きたのかはこれまで広く知られてきませんでした。

関係者の証言と資料を元に昭和を生きた参謀たちの実像に迫った前田啓介氏の『昭和の参謀』から、今回は「はじめに」を抜粋してお届けします。

 激戦地を戦った『最後の参謀』堀江正夫

2019年11月20日午前9時20分、大通りからやや奥まったところにある東京・成城の瀟洒(しょうしゃ)な家の前で、私は定刻となるのを待っていた。あと10分で、太平洋戦争の激戦地・東部ニューギニア戦線を戦った元第十八軍参謀、堀江正夫(ほりえまさお)への取材が始まる予定だった。

この日の取材で、私は瀬島龍三(せじまりゅうぞう)、辻政信(つじまさのぶ)について、堀江が知りうることを聴こうとしていた。濃淡はあるものの、堀江は両者ともに関係があった。瀬島は大本営の作戦参謀として、太平洋戦争に主体的に関わり、シベリア抑留を経て帰国した後は、伊藤忠の会長にまで登り詰めた人物である。辻も作戦参謀であるが、大本営に籍を置いた期間は長くなく、その軍歴の多くを戦場で過ごした。戦後は国会議員となった。

瀬島とは「大東亜戦争全戦没者慰霊団体協議会」を通して付き合いがあった。この組織の代表発起人が瀬島で、堀江も発起人の一人に名を連ねていた。会長だった瀬島が亡くなった直後は、堀江が会長代行を務めた。何より、大本営参謀であった瀬島を、第一線の参謀であった堀江がどう見ていたかを知りたかった。このことを、実感を持って語り得る人材は、もはや堀江を置いて他にはいなかった。一方、辻については、瀬島より関係が深く、堀江が陸大の学生であった時の教官という関係だった。

堀江の息子に案内され、日当たりの良い部屋へと通された。やがて、堀江が自著を手にゆっくりとした足取りで現れ、私のすぐそばに置かれた椅子に腰掛けた。

東部ニューギニア戦線では、上陸将兵15万人のうち13万人が亡くなり、「ジャワの天国、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と呼ばれた。

堀江という人物は、このような過酷な戦いを生き抜いた参謀であった。

参謀とは何かを“本物”の参謀から聴けるまたとない機会という思いはあっても、長時間、話をしてもらうのは体調に障(さわ)るのでは、と懸念していたが、堀江は2時間以上、矍鑠(かくしゃく)とした態度を崩さず、語り続けた。

大本営作戦課の作戦指導に話が及ぶと、堀江は感情を抑えようとしたゆえの強い口調で瀬島をはじめ大本営の参謀たちを批判した。

「大本営は机上の計画をやっている。川には橋がない、山は3000メートル級……。それにもかかわらず、図上でやれば移動できると考える。大本営は頭だけでやって、第一線の状況をつかんでもいなかった」

他方で作戦参謀だった辻について語る堀江の言葉には、親愛の情が感じられた。

「陸大では問題を出されて、それを一晩考えて、翌日に提出する。教官は学生から出た回答を見て、その明くる日、これを中心にして議論をして、次に進む。一晩おきくらいに問題が出る。それをね、約1ヵ月近く、辻さんは学校に泊まったままでね。
びっくりしたのは、こちらが書いて出した回答を、間違った字まで一字一字全部直してくれる。ペンみたいなもので直してくれる。それだけ丁寧に見るというのは、1
00人分の作業だから、普通ではできない。たとえば、僕が士官学校にいた時、回答用紙の2枚ほどは『乱雑にして見るに堪えず』と書かれたことがあった。『見るに堪えず』と書いて何の評もない。おそらく、見てもらえなかったんだと思います。それでも、この100人分の回答を、一人ひとり作業をやるとしたら徹夜だよ。辻さんにはほんとうに毀誉褒貶(きよほうへん)ある。ものすごい毀誉褒貶があるけど、誠実な人だった。それは、僕は痛切に感じています」

堀江の瀬島と辻に対する評価が、いずれも自身の実体験を基にした私情なだけに強い印象を私に与えた。

 

戦後を生きる参謀たち

大本営、参謀本部に在籍した参謀から、堀江のような第一線で戦った参謀まで、昭和の参謀たちは、さまざまな場面、場所で戦略、戦術を用いて、戦争を戦い、軍や国民を導いた。

軍人の中でも参謀は、戦前日本が英知を尽くして作り上げた特別な存在だった。明治、大正時代にももちろん参謀はいた。明治であれば、児玉源太郎(こだまげんたろう)が大山巌(おおやまいわお)を補佐する参謀として、日露戦争を戦い、勝利に貢献している。

ただ、満洲事変を起点に、太平洋戦争に至るまで、断続的に15年続いた戦争は、日露戦争などと比べても、死者数はもとより、戦争が社会に与えた影響は段違いに大きかった。それを実質的に指導したのは参謀たちであり、戦前昭和ほど、参謀の役割が強調された時代はなかった。

だが、敗戦という結果の悲惨さと深刻さが、戦前昭和の参謀に対する評価にも反映され、長らく独断専行、下克上(げこくじょう)の象徴のように扱われてきた。そのようなネガティブな評価が根強い一方で、ある局面においては「短時間における判断力」や「企画、立案力」を持ち、しかも「議論達者」で「意志鞏固(きょうこ)」であると、その能力が認められもした。

他方、戦前昭和の参謀たちの役割は敗戦によって終わった、とも思われており、軍が崩壊した後の彼らの人生は意外と知られていない。戦争にどう関わったかという参謀の本分に関しては関心が持たれるが、戦後の生き方に焦点があたる機会は少なかった。

戦前の参謀であっても、大佐や中佐、少佐の佐官クラスだと、終戦時はその多くが30代から40代前半で、将軍と呼ばれる将官でも50代、残りの人生を「休暇」として過ごすには戦後はあまりに長かった。

ウィキペディアでも「○年復員、○年に死去」などと数行で済まされてしまう参謀の戦後、その行間に隠れたさまざまな人生模様を知りたかった。特に、戦前の功罪、賛美が激しく揺れ動く言動が、戦後の生き方にどう影響したのかを対比することで、戦前社会だけではなく、戦後社会のありようまでも見ることができるのではないか、という大それた思いもあった。

関係者の証言や資料から、軍服を脱いだ戦後の生き様を照射すると、彼らは戦後昭和も、カギ括弧(かっこ)付きの参謀という肩書を背負いながら、社会と歩調を合わせ、やはり時に導き、小さくない影響を与え続けた。

戦後社会は無条件で彼らを受け入れたわけではなかったが、参謀という存在を無視することもできなかった。いやむしろ、局面によっては積極的に受け入れたのだった。

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