バイデン大統領は7月8日、人工妊娠中絶の権利を支持するための大統領令に署名した。人工妊娠中絶の権利を奪った暴走ともいえる最高裁の判断を「憲法に基づく判断ではなく、むき出しの政治力の行使だった」とあらためて批判した。しかし、米国の場合、州政府の力が強く、中絶や中絶薬へのアクセスを制限する権限を持っているため、今回のバイデンの大統領令がどこまで、この問題に影響するのかは見えない部分もある。

「実際アメリカに暮らす女性として、そしてアメリカで医師として働く立場として、私も怒りと無力感で鬱々とした気持ちになっています。また『アメリカの狂気』とまるで他人事に捉えた日本の報道もありますが、このアメリカの問題をきっかけに、日本の女性の生殖に関する自己決定権が果たして守られているのか、このことに関しても考えなければならないと感じるのです」というのは、米国小児精神科医でハーバード大学医学部アシスタントプロフェッサー、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長の内田舞医師だ。

7月8日、リプロダクティブ・ヘルスケア・サービスへのアクセス保護に関する大統領令に署名したバイデン大統領。photo/Getty Images

以下、内田医師からの寄稿をお届けする。

 

「アメリカは中絶を反対する人が多い」わけではない

2022年6月24日、約50年間アメリカ全土で人工妊娠中絶の権利を守っていた「ロー対ウェイド判決」の判決は最高裁判事9人の6対3の投票により、覆されました。アメリカの約半数の州で妊娠人口中絶の選択の権利が奪われてしまったのです。

このニュースを見て、「アメリカは中絶を反対する人が多い」と思う方もいるかと思いますが、それは事実とは異なります。アメリカ市民の大多数が中絶は合法であるべきと世論で主張しているにも関わらず、しかも選挙で選ばれた訳でもない9人の最高裁判事の個人的な「信仰」による多数決で、米国の女性の健康に関わる決断がされてしまったことに大きな問題があるのです。私自身も米国政府体制の問題に恐怖を感じました。

米国最高裁判所は、「同性婚の承認」「妊娠中絶の可否」「銃規制に関わる判断」など、米国全体の政策や方向を長年にわたって決定づける大事な判決を下す役割を担っています。だからこそ、最高裁判事にどのような人がなるかは一大関心事なのです。というのも、選ばれる判事の思想信条によって、多くの人の人生が影響を受けるからです。

2002年のブッシュ対ゴア大統領選の接戦をめぐっても、投票数の数え直しなどの問題が発生し、決着がなかなかつかず、最終的に最高裁が「ブッシュ勝利」の判決を下しました。最高裁判事という役職は終身職で、前裁判官の引退や死亡によって席が空くまでは新しい判事が任命されることはありません。

この最高裁判事は、国家の重大な決断を下すという大きな権力を持つ地位でありながら、選挙で国民によって選ばれるのではなく、大統領の指名によって一任され、指名を受けた人は上院で審議された後、可決されます。基本的に判事は中立でなければならないと言われていますが、人間なので、自分の信念や支持政党のマニフェストに沿った判決をなすものとみなされており、指名される際は、これまでの判例でどのような考えを支持してきた人か、ということが吟味されます。また、就任中の大統領の考えに合う判事が指名されるので、大統領選の際には、大統領本人の資質と同じくらい、「この人が大統領になったらどんな人が最高裁判事に選ばれるだろうか」ということも投票時の判断材料になるのです。

アメリカには、キリスト教原理主義の保守派層が存在しています。彼らは、信仰概念で中絶は絶対禁止で、それを法律として成立させるために20年ほど前からさまざまな手段を使って中絶禁止実現のために画策をしていました。そして、この問題に大きくかかわっているのが、トランプ前大統領です。彼を支持し、それによってキリスト教徒である保守派判事をトランプに任命をさせるよう働きかけ、彼らの想定通りトランプ就任中の4年間で3人の保守派判事を最高裁に就任させることに成功したのです。

任期中に、保守派判事を任命していたトランプ前大統領。photo/Getty Images