ついにタイトル回収!「鎌倉殿の13人」の構成と選出基準を解説

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第26・27話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先々週放送の第26話「悲しむ前に」、昨日放送の第27話「鎌倉殿と十三人」をまとめて解説。さまざまな史料や学説を参照しつつ、本作のタイトルにもなっている「13人の合議制」成立までの経緯や、13人の宿老の構成、そしてその選出基準に迫ります。

『鎌倉殿の13人』の第26話では源頼朝の死と頼家(頼朝の嫡男)の鎌倉殿継承、第27話では「13人の合議制」の成立が描かれた。頼朝の死を契機に政治の第一線から退こうとする北条義時だったが、周囲は義時を必要としていた。歴史学の観点から第26・27話のポイントを解説する。

「13人の合議制」の成立

挙兵時の源頼朝は東国御家人たちに支えられた神輿にすぎなかった。しかし頼朝は内乱を勝ち抜く過程で、上総広常など反抗的な御家人を粛清し、御家人たちに対する絶対的な支配権を確立した。

頼朝期の鎌倉幕府は、大江広元ら京下りの文士(文官、朝廷の下級官人)たちに補佐された頼朝の独裁によって運営されていた。御家人たちの意見が幕府の政治に反映されることはなかった。

源頼朝死後も、将軍独裁政治は維持される予定だったと思われる。建久10年(正治元年、1199)正月、頼朝嫡男の頼家(正五位下・右近衛権少将・讃岐権介)は頼朝の急死にともない、鎌倉殿(鎌倉幕府の首長、御家人たちの主君)の地位を継いだ。正月20日に朝廷の臨時の除目(じもく。諸官を任命する儀式)で頼家が左近衛中将に任じられたのである(『明月記』『猪熊関白記』)。

本来なら頼家は父頼朝の喪に服さなければならないのに、異例の任官が行われたのは、当時朝廷を主導していた土御門通親が特例措置をとったからである。

さらに朝廷は正月末、源頼家に対し、御家人を率いて「諸国守護」を行うことを命じた(『百錬抄』建久十年正月二十五日条・『吾妻鏡』建久十年二月六日条)。朝廷は頼朝に国家的な軍事警察権を委任したが、頼朝の死を受けて、その権限を頼家に与えたのだ。この世襲によって、鎌倉殿の国家的役割が確定した。

18歳の源頼家が速やかに父・頼朝の地位・権限を継承したのは、頼朝と同様の独裁政治を行うためだったと考えられる。けれども初期鎌倉幕府の将軍独裁政治は、源頼朝のカリスマ性があって初めて機能するものであった。頼家は若年の上、実戦経験もなく、御家人間の対立を調停する権威を欠いていた。

源平合戦を生き延びた歴戦の猛者である宿老たちは、年若い源頼家に不安を覚えたらしい。頼家が家督を相続してわずか3ヶ月後、いわゆる「13人の合議制」が導入された。

 

『吾妻鏡』によれば、建久10年4月12日、幕府において「諸訴論の事、羽林(頼家)直に決断せしめ給うの条、これを停止せしむべし」という決定がなされたという。そして今後は、北条時政・同義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政の13名が「談合」して政務運営を行うことになったとされる。

 鎌倉幕府研究の大家である佐藤進一(1916~2017)は「(頼家は)訴訟の親裁を禁ぜられ…宿老の合議にまつという決定が行われて、将軍権力の発動に厳しい枠が設定され」たと評価している(『日本の中世国家』岩波書店、1983年)。

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