蘇我、大伴、物部.....「豪族」と「氏族」の違いとは??

古代の日本を動かしてきた人々
やっぱり古代史はおもしろい!!
物部連、大伴連、蘇我臣といった中央のメジャーな豪族はもちろん、地方の有力豪族、渡来系豪族にいたるまで、日本古代を彩った100の豪族を網羅した現代新書の最新刊『日本の古代豪族 100』より、混同されがちな「豪族」と「氏族」という名称の違いを解説した本書の冒頭部分を特別公開します。

豪族とその系譜

『古事記』『日本書紀』を始めとする日本古代の史料には、さまざまな豪族の活動のようすが、描かれている。言うまでもないが、日本の古代史は天皇(大王、おおきみ)とその親族(皇族)のみで動いてきたわけではない。彼らを取り巻く多くの豪族(氏族)の存在があった。

彼らは、天皇(大王)を頂点とする大和政権(古代国家)を構成する一員として、重要な役割と地位を担ったが、中には天皇に反逆し、反乱を起こした者もいる。また広く海外に雄飛し、朝鮮諸国と倭国(日本)の対外交渉に関与した者もいるし、大陸、朝鮮半島からこの列島に移住し、定着した渡来系豪族もいた。

 

彼らの活躍は、今日では日本列島各地に点在する古墳に見ることができる。全国に古墳の数は16万近くあるというが、なかでも前方後円墳や一定規模以上の円墳や方墳、あるいは八角墳などは当時の有力者たちを葬った古墳であると言えるだろう。その分布は、とりもなおさず古代の豪族たちの存在を反映している。

都塚古墳(Photo by iStock)

これら有力者の古墳は、単独でポツンと造られることよりも、ある一定の範囲内に数十年にわたり継続して造られていくことが多い。これらを古墳群というが、あるひとつの古墳群は、ある豪族代々の墓地だったと見て間違いないだろう。それらの中には、文献に名前を残していない豪族も数多くあるとみられる。

これら古代の豪族たちを、現代の古代史学では本拠とした地域により分類し、大和政権の中枢部である大和、河内、摂津、山背に本拠をもつ者を畿内豪族(中央豪族)、それ以外を地方豪族と呼んでいる。地方豪族の中でも関東地方から九州地方に至る各地域で有力な勢力を誇った者もあれば、中央の有力豪族の支配下にあった中小豪族まで多様に存在した。

政権は、彼らの出自、職能などの性格により、臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)、直(あたい)、造(みやつこ)、首(おびと)、などなどの姓(カバネ)を与えた。

各々の性格は、臣(畿内の有力豪族。王権への従属度が高い)、連(一定の職掌を以て王権に仕える、従属度のより強い豪族)、君(地方・畿内の有力豪族。王権から比較的独立した性格をもつ)、直(畿内の中小豪族。および渡来系豪族)、造(渡来系豪族)、首(畿内の中小豪族)と多様で、姓の間での上下関係はなかったが、臣姓の中から「大臣(おおおみ)」、連姓の中から「大連(おおむらじ)」が1名ないし2名選ばれ、執政官としての役割を担った。

大臣・大連に次ぐ有力豪族は「大夫(まえつきみ)」と呼ばれた。大臣には(伝承では)葛城(かずらき)氏、蘇我氏など、大連には大伴氏、物部(もののべ)氏から選ばれ、大夫(群臣)は阿倍氏、和邇(わに)氏、紀(き)氏、中臣(なかとみ)氏などから構成されていた。6〜7世紀の政権は、基本的にこの大王、大臣、大連、大夫をメンバーとする群臣会議によって運営されていたといってよい。

こうした蘇我、大伴、物部等々の氏の名前は、6世紀前半から半ばの継体〜欽明朝ころに名乗られ始めたもので、元来、天皇が与えたものであり、時に名を改める場合にも、後世に至るまで天皇の許可が必要であった。

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